「わたしの食べ物」
説教要旨( 4月 13日 朝礼拝)
詩編 第107編1~9節/ヨハネによる福音書 第4章27~42節
伊藤英志
ヨハネ福音書の第4章、サマリアの町近くの出来事に記されている人々は、皆、渇き、餓え、渇望しています。口も利かない間柄であったサマリア人の町で空腹を抱えながら食べ物を探しに行かなければならなかった弟子たち。自分の夫について複雑な事情を抱えていたために人目を避け続けてきた人生に渇きを覚えずに済む水―永遠の命に至る水を求めてきたサマリアの女。救い主の到来を待ち望んでいたサマリアの町の人々。皆、飢え渇いています。皆、満たされたかった人々です。
主イエスが救い主メシアであると悟った女は、自分が最も避けていた町の人々の中へ入って行きます。それを聞いた町の人々は井戸に向かって駆けつけて行きます。井戸端で食事を始めようとしていた弟子たちは、町で苦労して手に入れたさまざまな食べ物を主イエスに勧めますが、主イエスは「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」(32節)と言い、「わたしの(ひとつなる)食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(34節)と弟子たちに告げます。この時、弟子たちは何のことか理解できなかったことでしょう。
続いて主イエスは弟子たちに告げます。種まきが終わったばかりの畑はすでに「色づいて刈り入れを待っている。刈り入れる人は報酬を受け、永年の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈り取る人も、共に喜ぶ」(35-36節)。「あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした」(38節)と告げ、喜びに満ちた刈り入れがこれから始まるというのです。その通りになります。
サマリアの女が、大勢の町の人々と一緒に、主イエスの一行に向かって集まってきます。驚くべきことに、女はつい先ほどまで、最も避けていた町の人々の前に立ち、主イエスのことを証言し始めます。そして、女が熱心に証言する言葉によって、町の人々は主イエスを信じます。
さらに、「サマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるように」(40節)と懇願するという起こりえないことが起こります。サマリア人が、ユダヤ人であった主イエスの一行を自分たちの家に招きいれ、食事の世話など一切の面倒を見ることを意味しているからです。そして、主イエス一行は、サマリア人の町に迎え入れられ、二日間その町に留まり、「更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた」(41節)のです。「世の救い主である」と信じたのです。
主イエスと井戸端で出会った女が、ついさきほど蒔いた種が、町ですでに大きな実りをもたらし、サマリアの町全体が主イエスの一行と共に喜びに包まれて、その実を刈り入れています。種を蒔いた人も、刈り取る人も、共に報酬を得て、喜びの中にあります。飢え渇いていたすべての人が、満たされたのです。
ここに「主イエスの贖いの業」が示されています。主イエスは、対立と反感いう闇から、孤独という苦難から、人々を大いなる喜びで満たすことへと変えていく「贖いの業」を実現します。天の父の御心である「贖いの業」を地上で示すために、主イエスは世に遣わされました。永遠の命を生きるための食べ物を私たちに与えようとする業を地上で成し遂げようとする、その熱意こそが、主イエスを力付け、活力を与える食べ物であったのです。
主イエスのひとつなる食べ物とは、天の父の御心を主イエスが行い、その業を成し遂げること、すなわち、十字架での死とその死からの復活を成し遂げることでした。
私たちは、飢え渇く時、自分の力に依り頼んで得た報酬によって自分の飢え渇きを満たす食べ物を得ようとして労苦してしまっています。しかし、私たちの霊が永遠の命に生きるために食べるべき食べ物とは、主なる神の御言葉、主イエスの御言葉です。この聖なる御言葉によって、私たちは食べて満足するために生きる人間から、永遠の命を生きるために食べていく人間へと変えられていくのです。

