「福音の射程」
説教要旨( 4月20日 朝礼拝 )
創世記 第15章 1~ 6節/ローマの信徒への手紙 第 4章 1~ 8節
倉橋康夫
冒頭に、<では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。>、とあります。アブラハムはユダヤ人にとって誇るべき先祖であり、模範でした。アブラハムについて、ユダヤ教神学においては、彼が神を信じた功績によって世界の相続者にされた、と理解されていました。そしてアブラハムの信仰の功績が、一人息子イサクの奉献という目覚しい業であった、としたのです。このようなユダヤ教の考え方を承知していたパウロは、敢えてアブラハムの場合を取り上げたのです。
そして、<もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。>、ときっぱりと言います。アブラハムの得たもの、それが行いによる義であるのなら、誇ることもできる。しかし、実際はそうではなかった。神の前において義とされる人間の行いなどはない、と言うのです。ここで、わざわざ<神の前では>と言うのは、人の前で、人に対して、と言う場合を考えているからでしょう。人と人との比較においては、多少とも優劣はあるかも知れません。良い行いと悪い行い、という正反対の場合があります。また、良い行いにも、大変良い場合とやや良い場合の違いもあることでしょう。アブラハムの場合などは、人間の目から見るならば、最高の業を行い得た場合と映るに違いありません。
けれども、神の前においては事情が違う、とパウロは言うのです。<神の前ではそれはできません>、と言い切ります。アブラハムの場合に限らず、ユダヤ人であろうが、誰も、神のみ前において誇ることのできる何ものをも持ち得ない、と言うのです。そこでパウロは、<聖書には何と書いてありますか。>、と言って、聖書の語るところを聞こう、と言います。それは、併せて読んだ創世記 第15章の最後の節です。<アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。>と記されております。事柄は明白です。アブラハムが義と認められ、神の祝福の約束が与えられたのは、彼の行い・業には無関係だった、と言うべきではないか、とパウロは言いたいのです。
この後、アブラハムは揺るぎなく神の約束を確信し続けたか、と言うとそうでもありませんでした。アブラハムの心は揺れ動き、諦めてしまったことさえあった程です。けれども、そのようなアブラハムに対して、主なる神は繰り返し約束を思い起こさせ、確認させながら、導かれたのです。神の約束を信じた、そのアブラハムの信仰を守り抜いて下さったのは、主なる神ご自身だったのです。
主なる神がアブラハムにして下さったことは、何だったのでしょうか。神がアブラハムに最初に、祝福の約束をして下さいました。それは、恵みの約束でした。アブラハムはそれを信じたのです。その信仰を、神は良しとされたのです。そこにあるのは、「神の恵み」とアブラハムの関係です。そして、そこに示されたことこそが、アブラハムの得たものです。アブラハムは、神の恵みの約束を信じることを得たのでした。
そして、このアブラハムの姿が、福音の前に立つ私たちのあり方を指し示している、と言えますし、パウロもそれを言いたいのでしょう。神の福音は、恵みとして信仰をもって受けるものであり、そこに神の良しとし給う道がある、と言うのです。そしてこの福音の性質が、「福音の射程」を示しております。福音とは、言うまでもなく主キリストにおいて神が為して下さった救いのみ業です。その福音に、信じることによって、誰でもが結ばれる、救われるのです。<そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。(ガラテヤ3:27)と言われている通りです。神は、主キリストによって、全ての人々の救いを用意して下さり、招いておられるのです。共々に、この福音に生かされて、進みましょう。

