「信仰の父・アブラハム」
説教要旨( 4月27日 朝礼拝 )
創世記 第15章 1~ 6節/ローマの信徒への手紙 第 4章 4~ 12節
倉橋康夫
最初に、<では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。>、とあります。<割礼を受けた者>とは、ユダヤ人のことです。ユダヤ人は生後8日目に、体にユダヤ人である印として傷を付けました。それが割礼です。<この幸い>と言われていることは、パウロが詩編 第32編から引用したように、<不法が赦され、罪を覆い隠された>幸い、<主から罪があると見なされない>幸いのことです。日々、神との交わりに生かされるキリスト者は、自分の幸せを噛み締めつつ生きているのではないでしょうか。神に祈り、神のみ声に耳を傾ける、神を身近に感じつつ生きている、それは<不法を赦され、罪を覆い隠された>信仰者の特権、と言って良いでしょう。ところで、その特権はユダヤ人だけのものかとパウロは、予想されるユダヤ人の主張を思い浮かべて話を進めます。そこで、アブラハムに戻って考えよう、と言います。そもそも、神の祝福の約束はアブラハムに与えられたものだからです。3節で引用された創世記 第15章の言葉が、再び引き合いに出されます。<「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。>、と。創世記 第17章にアブラハムの割礼の記事があります。アブラハムがカナンに住んでから、14年後のことです(16:16参照)。割礼があるから、神はアブラハムを良しとされたのではなかった、と言えます。ユダヤ人らは、割礼がある、自分たちは神に選ばれ、祝福された者である印が付いている、と誇っているが、印そのものが重要なのではなく、何故その印が付いているか、その根拠は何か、ということが重要だ、とパウロは言います。<アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。>(11節a)と。自らの信仰を深く見つめることを怠って、印だけを振りかざして、自分は神に選ばれている、と誇ってみても意味はないのです。
このことは、私たちキリスト者にとっても無縁のことではありません。自らの信仰の質を吟味することなく、形ばかりの信仰生活になってしまう、ということは大いにあり得るからです。パウロが伝道活動を盛んに行い始めた頃、洗礼は既に行われていましたが、キリスト教会(エルサレム教会)の中で、異邦人にも割礼を受けさせるべきである、との議論が起こりました(使徒15:5、エルサレム会議 49年)。しかし、キリスト教会は、信じて救われた印として洗礼だけを選び取りました。
ルターが困難に直面した時、「私は洗礼を受けている」ことを支えにしたことは知られています。しかし、この印は神の約束を確信することであり、目に見える確かさに頼ることではありません。エフェソ書に、<あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、それを信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。>(1:13)とあります。聖霊の証印を押されているとは、神の真実に支えられていること、と言っても良いでしょう。
ところで、アブラハムの割礼は、信仰によって義とされたことの証しでした。割礼のないままで、信じることによって、神の恵みに入れられたアブラハムの歩みは、割礼があってもなくても、信じる全ての人々が、神の恵みに入れられることを指し示している、と言えます。正に「信仰の父・アブラハム」です。このアブラハムの信仰が、主キリストの出来事によって、いよいよ明確にされました。主キリストの十字架の死と復活によって与えられる救いは、信じて受ける以外にはないことだからです。「信仰の父・アブラハム」の系譜に私たちも連なっています。信じて救われる道を、主キリストは最終的に開き、確定して下さいました。「信仰の父・アブラハム」の足跡を辿りつつ、この救いの道を歩んで行きたいと思います。

