「ここに水があります」
説教要旨( 5月 11日 ペンテコステ 朝礼拝)
イザヤ書 第56章1~8節/使徒言行録 第8章26~40節
伊藤英志
主の天使がフィリポに向かって「南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と告げます。その道はひとけのない荒れ野の道、「寂しい道」でした。フィリポはそれが何を意味しているのか知らされないまま、その道を下って行きます。すると霊がフィリポに告げます。「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」。馬車に乗っていたのは、エチオピアの女王に仕える高官で、エチオピア人の宦官でした。
この宦官は、異邦人でありながらイスラエルの神を信じていて、エルサレムの神殿に巡礼に向かったその帰路にありました。馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読しています。
宦官とは古代の王や女王に仕える役人でしたが、去勢された男子が宦官と呼ばれ、私利私欲を捨て去った証を立てた人物として、時の権力者達から高い待遇で任官されていました。しかし、こうした宦官はイスラエルの律法では礼拝の席につくことはできません。エルサレムの神殿でもユダヤの人々と同じ礼拝を守ることはできなかったはずです。巡礼の旅もどこか寂しいものであったはずです。
この宦官は、預言者イザヤの書に記されていることを理解できずにいました。フィリポの掛け声に嘆きの声をあげます。「手引きしてくれる人がいなければ、どうして分かりましょう」。そう言って、フィリポを馬車に招き入れます。
宦官は、もはや子孫が与えられない、実を結ばない「枯れ木」にすぎないと自分の心の中で思っていたはずです。それは当時の感覚では、命が地上から取り去られた人生、損なわれた人生を意味していました。しかし、イザヤ書第56章には、宦官の救いが記されています。宦官はこれから生きていくため、この預言の意味を知らないではいられません。
馬車の上で宦官と寂しい道を共に進んでいったフィリポは、口を開きます。そして、イザヤ書から説き起こして、預言されている「すべての民の救い主」が主イエスであることを告げます。霊と知恵に満ちていたフィリポは、主イエスの教えと御業、十字架と復活、エルサレムで主イエスを信じた人々に聖霊が降ったこと、つまり「イエスについての福音」を宦官に解き明かします。
その道を進んでいくうちに、二人は水のある所に来ます。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」宦官はフィリポに申し出ます。宦官の救いを妨げるものは何もありません。馬車を止めさせ、宦官はフィリポから洗礼を授けられます。主の霊はフィリポをその場から連れ去ってしまいますが、宦官はフィリポの姿が見えなくても、喜びにあふれて旅を続けて行ったのです。寂しい道で、寂しい思いであった宦官は、自分がとこしえの救いに与ったことを確信して、その後の人生を喜びと共に生きたのです。
教会をたててくださる聖霊の働きは明らかです。聖霊は今も私たちに語りかけています。私たちがどこへ向かって行くべきかを教えようとしています。その道がたとえ寂しい道に見えたとしても、たとえその道に向かうことが何を意味しているのかを知らされなくても、聖霊は「その道を行け」と告げるのです。そして聖霊は、聖書の御言葉が朗読されている場所に向かわせます。神の御言葉が語られている声を耳にする時へと向かわせ、神の御言葉が何を意味しているかをその人の内に解き明かし、その人の霊に響き渡らせます。
聖霊は人の口を開かせます。主イエスの福音を人の口に語らせます。十字架と復活の福音を信じて口で証しするようにさせるのです。自分の口で洗礼を志願するようにさせるのです。その聖霊の働きを私たちは、今日の洗礼式によって再び確信することができました。
この私たちもかつて、寂しい道を嘆きの声をあげながら、とぼとぼと歩んでいたのではないでしょうか。しかし、私たちは聖霊の御働きによって召し集められて、とこしえの救いに生きています。この聖霊の御働きによって、私たちは喜びに満ちた道をこれからもなお歩み続けるのです。

