「今の恵み」
説教要旨( 5月25日 朝礼拝 )
イザヤ書 第32章15 ~ 20節/ローマの信徒への手紙 第 5章 1 ~ 5節
倉橋康夫
ロマ書 第5章2節の最後で、パウロは<神の栄光にあずかる希望を誇りにしています>、と言い、続いて、<そればかりでなく、苦難をも誇りとします>、と言います。原文では、ここは「苦難の中にあっても誇る」という文章です。キリスト者が出遭う苦難には、信仰故のものがあり、それを喜んで受け入れ、誇りとする、ということがあり得るでしょう。そのような苦難を受ける、ということ自体が、信仰の歩みだからです。宗教改革者の.M.ルターは、これを「苦難をも誇る」と訳しました。それ以来、この翻訳が広く定着したのです。キリスト者故の苦しみについて、パウロはフィリピ書において、次のように言っています。<つまり、あなたがたは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。>(1 : 29)、と。
「苦難を誇る」とは、そのような苦難に対する信仰者の積極的な姿勢を意味します。そして、そのように苦難と向き合う時、苦難は忍耐を生む、と言います。ここで語られていることは、一般論ではありません。信仰の生活における忍耐のことです。神の恵みに堅く立ち続ける忍耐、「今の恵み」から離れない忍耐、従って、<神の栄光にあずかる希望>から離れない忍耐、と言うこともできるでしょう。この希望の実現の時を忍耐して待ち望む、ということです。このように、キリスト者は、苦難によって益々堅く神の恵みに結び付けられ、希望に生きるものとされます。ここに、信仰者の忍耐があるのです。
そして更に、そのような信仰者の忍耐の生活から、練達が生み出される、と言います。「練達」と言うと、物事に熟練すること、と考えがちです。世渡りが上手になるとか、処世術に長けるとか、を連想するかも知れません。しかし、本来「練達」とは、テストに合格すること、金の純度のテストに合格することです。つまり、純粋になること、です。ここでも、何よりも信仰における純粋さのことです。神の恵みに対して純粋になることです。ただ神に依り頼み、神に全てを委ね、神に望みを置く生き方のことです。従って、神の恵みに対して純粋である、ということは、このように決して望みを失うことはなく、寧ろ、望みを新たにするのです。
従って、このように苦難の中で忍耐の生活をし、忍耐の生活から練達を身に付ける信仰の歩みは、常に希望を新しく受け止め直す歩みです。<神の栄光にあずかる希望を誇り>とするキリスト者の歩みは、苦難をさえも誇り・喜び、更に忍耐と練達を経て、尚一層強く希望に生きるようにされる、と言うのです。このように、信仰から信仰への歩みは、希望から希望への歩みである、と言うことができるでしょう。そして、<希望はわたしたちを欺くことがありません。>(5節)、と言われます。「この希望は恥をかかせない。」(直訳) 併せて読んだ詩編 第25編において、詩人は、主なる神に望みを置いて生きる者は、決して恥を受けることがない、との確信を謳い上げています。
扨て、そこでパウロは、<希望はわたしたちを欺くことがありません>、と断言できる根拠を示します。<聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているから>、と。神の愛は、独り子を十字架につけてまでも、私たち人間を救って下さる愛です。そして「心」とは、その人間の感性・願い・判断の場、その人の存在と行為の中心、です。そこが、聖霊によって、神の愛で満たされ、神の愛が支配するのです。私たちを救って下さる神の愛、即ち神の恵みに満たされる、と言っても良いでしょう。神の救いのみ業で心の中を一杯にして生きるキリスト者の姿は、「聖霊によって、神の愛が」注ぎ込まれていることを証ししています。困難、迷い、躓きはあるでしょう。しかし更に、聖霊の助けを求めつつ、神の愛を受けた者に相応しく整えられて、信仰の歩みを進めたいと祈り願います。

