「あなたがたは、決して信じない」
説教要旨( 6月 8日 朝礼拝)
エゼキエル書 第18章30~32節/ヨハネによる福音書 第4章43~54節
伊藤英志
カファルナウムからカナに上ってきた王の役人に主イエスが告げます。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」。カナまで来た役人は、主イエスに、カファルナムまで下って来て病気で死にかけていた息子を癒してくださるように頼み続けます。ガリラヤの領主ヘロデに仕える高官であったその役人は、片道二日を要する山道を、自ら上って来ます。息子を助けられるのはナザレのイエスしかないと思ったのでしょう。
役人が繰り返す頼みごとに主イエスは一度だけ告げます。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」。主イエスはこの役人を無視しているかのようです。主イエスはこの役人と議論や問答をしようとせず、ただ断言し宣言します。それはまるで裁きの言葉ともいえる厳しい応えです。
「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と食い下がる役人に主イエスは言い続けます。「帰りなさい。あなたの息子は生きる」。ただそれだけを繰り返し言い続けます。最も暑い時間である午後1時の出来事です。
そう言われた「その人」は、主イエスの言葉を信じます。午後の昼下がり、カファルナウムへ帰っていきます。一夜が明けてあくる日、道を下っていくと迎えに来た自分の僕たちに出会い、息子が生きていることを告げ知らされます。元気になった時刻は「きのうの午後1時」だというのです。
カファルナウムの家に戻った役人は、元気になった息子の姿に喜びながら、カナであったことを家族に告げ、役人の家族皆が主イエスを信じるようになります。カナにおいて、水をぶどう酒に変えたしるしの時と同じく、主イエスご自身は、人々の目の前で何らの奇跡も行わず、ただお語りになっただけでした。それがカナで示された「二回目のしるし(54節)」です。
「帰りなさい」と言われた役人は病気の息子がいる自分の家に確かに帰りました。しかし、王の役人には大きな変化が生じていることがわかります。46節では「王の役人」が来たことを示しますが、主イエスの裁きの言葉を前にして、さらに主イエスに何度も懇願し続けるうちに、王の役人から一人の人となっていきます。50節に「その人は」とあります。役人は「帰りなさい」と言われ続けると、一人の人間としての自分を取り戻します。だからこそ「イエスの言われた言葉を信じて帰って行く」ことができました。さらに53節では息子の病気がよくなった時刻が「あなたの息子は生きる」と言われた時刻と同じであることを「父親は知った」、とあります。
地位と権威ある役人が主イエスの裁きの言葉の前に一人の人としての自分を取り戻し、父親であることに立ち帰っていきます。自分の家族皆が主イエスを信じるべきであると断言する父親となっていきます。主イエスの言葉によって救いに与ったのは、病気の息子だけでなく、この子の父親でもあったのです。
主なる神の厳しい裁きの言葉を記しているエゼキエル書にあるように、この役人の中にも「新しい心と新しい霊」が生じます。主イエスとの議論や取引によってではなく、主イエスの裁きの言葉によって新しく生きる者となります。エゼキエルとは「神は力づける」という意味ですが、主なる神からの厳しい裁きの言葉は、神の民が新しい命に生きる姿を取り戻していくためにあります。裁きの言葉は、神の民を力づけようとしているのです。
「どうしてお前たちは死んでよいだろうか」と神ご自身がお語りになっているとおり、主なる神は、その人がたとえ誰であってもその人が死んでしまうのを決して喜びません。神の裁きの言葉は罰を与えようとするだけでなく、その人が何者か、どのような姿で生きているのかを告げ知らせようとします。
私たちの霊も、大切なことを見失っていた自らの姿を聖なる裁きの宣言によって知らされて、主イエスの御言葉を信じるものとされます。新しい心と新しい霊に立ち帰っていき、再び主イエスの言葉に生きるものなるのです。

