「神の怒りからの救い」
教要旨( 6月22日 朝礼拝 )
イザヤ書 第12章 1 ~ 3節/ローマの信徒への手紙 第 5章 6 ~ 11節
倉橋康夫
パウロは5節の最後で、<聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている>、と言っておりました。そこで、今日の個所において、この神の愛が、どのようにして現されたか、について語ります。<実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。>、と。「弱い」という字は、極普通の人間としての弱さを指します。病気、衰え、誘惑に負ける、・・・。私たちは人間的な弱さに振り回されて生きている、と感じている人は多いでしょう。自分ではどうしようもない、絶望的な弱さです。しかし、人間的な弱さに甘えることは、不信心に通じることになります。ところが、このように弱く、不信心であった私たちのために、<実にキリストは・・・、死んでくださった>のだ、とパウロは言います。
パウロはここで、一般に良く口にされた格言のようなものを引用し、善い人、善意の人、心優しい人、そのような人のためなら、命を惜しまないという者もいるかも知れない、と言います。確かに人間同士の愛の現れとして、命を投げ出すという可能性を全く否定することはできないでしょう。
けれども、主キリストが死んで下さった事情は、全く別問題であり、比較することができない、とパウロは言いたいのです。<しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださった>、と。つまり、罪人のための死であった、ということです。罪人の死、と言うのではない。罪人の死であれば、それは罪人の当然の報いとしての本人の死を意味します。しかし、そうではなく、罪人のための死を、主キリストが引き受けて下さり、神の愛を現して下さった、と言うのです。
主キリストの死は、人間の罪の償いのため、人類の罪を引き受けるためのものでした。この出来事によって、神は私たち人間への愛を示された、と言います。ここでは、「神は愛を示しておられる」、と現在形になっています。主キリストの十字架の死は、歴史上に起こった、只一回限りの出来事ですが、その出来事によって、今も神はご自分の愛を示し続けておられるのです。
そこでパウロは、<それで今や>、と話を決定的場面へと展開します。今置かれている幸いな立場、それは主キリストの血によって義とされた今であり、信仰者一人ひとりに実現した今です。ここで「神の怒りからの救い」に説き及びます。「神の怒りからの救い」は、<なおさらのこと>だ、尚一層確かなことだ、と言います。主キリストの血によって義とされた、主の十字架が罪の贖いのための死であったのなら、「神の怒りからの救い」は確実となっているのだ、と言うのです。
この神の怒りは、<来るべき怒り>(Ⅰテサ1 : 10)であり、最後の審判のことが考えられているでしょう。神の怒りは、全ての人間にとって切実な問題であり、パウロにとっても、神の怒りからの救いこそ全てであった、と言って良い程でした。主キリストによる「神の怒りからの救い」は、併せて読んだイザヤの預言の最終的な成就である、と言えるでしょう。<その日には、あなたは言うであろう。「主よわたしはあなたに感謝します。あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが/その怒りを翻し、わたしを慰められたからです。・・・>、と言われています。
「神の怒りからの救い」、それは、その時になってみなければ分からないのではなく、今既に確実なこととして約束されているのだ、と言います。主キリストが私たちの罪のために死んで下さった、ということを信じる者は、罪赦された者として生きることができるのです。来るべき神の怒りからの救いを、確実な約束、今既に確かなこととして生きることができます。この救いの喜びを、日々味わいつつ、噛み締めつつ、信仰の歩みを進めていきたい、と思います。

