「向きを変えて、行きなさい」
説教要旨( 6月 29日 朝礼拝)
申命記 第1章 6 ~ 8 節/ルカによる福音書 第1章13~17節
橋本いずみ
申命記は、出エジプトからの荒れ野で過ごした40年を振り返って、モーセが「これだけは伝えておきたい」と思い再び命じて語り聞かせた言葉である。モーセがイスラエルの民に遺言のようにして語った言葉である申命記から、わたしたち―新しいイスラエルの民である教会―に語られる御言葉を聞いてまいりたいと思います。
申命記1章6-8節において、モーセは、かつて神がホレブで語られた言葉を思い起こしています。
ホレブ山(シナイ山)というのは、イスラエルの民への最大のプレゼントである十戒が与えられたところであります。何をすべきかが示されたということからすれば、この場所は安心できるところであったことでしょう。
けれども、神は滞在し続けることをお許しにならず、向きを変えていくことをお命じになります。
神が、加えて命じたことは、「取ること」です。向きを変えて目指すその先には、「アブラハム、イサク、ヤコブに約束された土地がある」神が約束された土地がある。そして、その地を恵みとして「受け取れ」と言うのです。
神は、モーセ率いるイスラエルの民には、「向きを変えること」、「出発すること」、「取ること」を命じられました。それでは、わたしたちにとって、向きを変え、出発して行き、取ることは、どういうことなのでしょうか。
申命記とともに、ルカによる福音書を読みました。ここで洗礼者ヨハネの誕生が予告されています。洗礼者ヨハネとは、イエス=キリストに先立つ者として、悔い改めの洗礼を授けた人物です。彼が生まれる前に、彼がどのような働きをすることになるかを天使が告げた言葉が、今日読んだ聖書の個所です。
わたしたちは悔い改め、洗礼を受け、キリスト者になりました。悔い改めとは、向きを変えること、神の方に向き直ることです。わたしたちは、「わたし」の口で告白し、主イエス・キリストを信じて、悔い改め、洗礼を受けました。ですから、このイスラエルの民が歩んできた道のりを一人の信仰者の歩みとしてみることができます。ある人が、出エジプトを経験し(捕らわれていたところからの解放-キリスト者にとっては洗礼)その後、神と共に、歩む人生が始まる。それは、山あり谷あり、神に悔い改める時もあれば、神に背くときもあった。けれども神は、イスラエルを決して見放すことはない。イスラエルの民の様子は、まるでこの世で歩んでいく一人の人として見ることができる。
それと同時に、イスラエルというのは、教会の歩みと見ることができるでしょう。イスラエルの民は、民全体で一つです。神は、イスラエルの民を一纏りにして導いて来られたのです。モーセの率いてきたイスラエルの民であるならば、わたしたちの属するこの教会は、イエス=キリストに率いられる新しい神の民です。
向きを変えることそれは、キリストの方に向くことです。キリストの方を向いてわたしたちは進んでいくのです。この世に来てくださり、十字架にお掛かりくださり、わたしたちの罪を贖ってくださった、そのキリストに目を向けることです。そして、かつて来られた主イエスは、再びこの世に来てくださると、約束してくださいました。ですから、教会は、やがて来てくださる、キリストの方を向いて行くのです。そして、キリストが再び来るときに、新しい天と新しい地が実現するのです。
わたしたちが進んでゆく先に新しい天と新しい地が用意されています。それが、わたしたちの最後に伝えておきたいと思うことです。
イエス・キリストが再び来られて、新しい天と新しい地、神と共にある神の国が来るときに、すべてのキリスト者-新しい神の民に属したすべてのものが共に喜ぶことになります。わたしたちは、その喜びのときに繋がる、ひと時を託されているのです。
キリスト約束を信じて、キリストを仰ぎ見つつ、進んでまいりたいと思います。

