「神を喜び誇る」
教要旨( 7月 6日 朝礼拝 )
エレミヤ書 第 9章22 ~23節/ローマの信徒への手紙 第 5章 6 ~ 11節
倉橋康夫
ロマ書の本日の個所の6 ~ 9節までで、主キリストが私たちのために死んで下さったことを繰り返していましたが、10節では<御子の命によって救われる>と言います。10をまとめると、「み子の死によって神と和解させて頂き、み子の命によって救われる」、と言うことです。ここで、<御子の命>とは、主キリストの復活、復活の命が考えられています。み子の死によって神との和解が与えられることは、み子の命、復活の命によって尚一層確かなことだ、と言うのです。つまり、主キリストが復活されたというそのことに、キリスト者の救いの確かさがある、と言うのです。つまり、主キリストによる救いとは、神との間に平和・和解を得ることであり、しかもそれは、復活の命において、永遠の命において神との関係が回復することだ、と言うのです。このように、パウロは、み子の死は罪人(つまり敵)を救うための犠牲であったことを言葉を尽くして語り、その主キリストの死による救いが、永遠の命に結ばれることを内容とすることを、主の復活によって保証されたことに説き及んでいるのです。
そして更に、<(しかし)それだけでなく>、と言葉を重ねます。<わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。>、と。神が敵であるような私たちのために、救いのみ業を行われた、そのような出来事が起こった、ということは、そのような事実があったと語るだけで済まされることではなく、その事実に触れた者、主キリストによる救いを信じる者は、生き方が根底から変えられてしまうことである、と言うのです。主イエス・キリストによって、神を誇りとする、そのような生き方に変えられる、と言うのです。
パウロは誇りに関して、誰にも引けを取らない生き方をしていたことがありました。(フィリピ書 第3章5、6節参照) けれども、主キリストに出会って、そのようなことは、肉を頼りとすることだ、と気づかされたと言います。それまで頼りにし、誇りであったことについて、<それらを塵あくたと見なしています>(Phill.3 : 8)と言う程にまでなったのです。誰でもが羨むような家系や学歴を持ち、立派な行いをしていると自他共に認めていたのに、それらを頼りにし、誇ることの過ちに気づかされた、と言います。それは、主イエス・キリストと出会い、その救いを知らされたからこそ言えたのです。
併せて読んだエレミヤ書 第9章に、主なる神が命じられることとして、何を誇るべきかが示されています。<むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい/目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主、この地に慈しみと正義と恵の業を行う事/その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。>(23節)、と。
「誇る」という字は、「喜ぶ」と訳すこともできます。この両方の意味を併せて表現するならば、「神を喜び誇る」となります。主イエス・キリストを通して神が与えて下さったその救いを思う、エレミヤの言う「目覚めて主なる神を知る」ならば、喜ばしく、誇らしく思えて仕方がない、ということです。
そして続いてまたもや、<今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。>、と言います。パウロにとって、如何にこの神との和解が生き生きとした現実であったかが分かります。日々生き生きとした、神との触れ合いの中で生かされていた、ということでしょう。神が自分と共にいて下さることを、一刻一刻実感して生きており、そのような神との交わりが、嬉しくてしょうがない、という気持ちなのです。日々、「神を喜び誇る」生活こそが、み子の命によって救われた、つまり永遠の命に結ばれて生きる、そのような者の生活に他なりません。私たちもまた、主イエス・キリストによって与えられたこの幸いな生活、「神を喜び誇る」歩みを、尚一層深く味わい得るよう、聖霊の導きを求めつつ進めていきたい、と思います。

