「良くなりたいか」
説教要旨( 7月 13日 朝礼拝)
詩編 第4編3~6節/ヨハネによる福音書 第5章1~18節
伊藤英志
主イエスは、ガリラヤからエルサレムに向かい、「羊の門」と呼ばれていた神殿の入口で立ち止まります。エルサレムに巡礼に訪れた人々は、罪の赦しの献げものとして屠る羊をこの門で買い求めて、神殿へ入って行きます。この門の傍らにはベトザタと呼ばれていた池がありました。
この池にあった五つの回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、身体の麻痺した人などが大勢横たわっています。水が動いたときに、他の人に先んじて真っ先に水に入った者は癒されると信じられていたからです。池を見つめる大勢の人々は異様な雰囲気に包まれていたはずです。主イエスは38年間も病気でそこに横たわっていた人に近づいていき、「良くなりたいか」と呼びかけます。「健やかになりたいか。元気になりたいか。癒されたいか。」という意味です。その人は答えます。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。・・・他の人が先に降りていくのです。」
石の回廊に自分の身体を横たえるむしろだけが、その人にとって唯一の慰めだったことでしょう。この人は、自分を顧みてくれる人が誰もいない、自分が癒されるために手伝ってくれる人がいないことを、悲しさと悔しさと無力感の中で訴えます。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」主イエスが告げると、その人はすぐに良くなって歩き出し、そのまま立ち去ってしまいます。
その日は安息日でした。安息日は神の創造の業を覚え、人間も全ての労働の手を休めて、主の慈しみに心を向け、健やかにされるためにあります。主イエスに癒されて歩き始めた人は、安息日の規定に違反して歩きまわってしまい、人々から咎められます。しかし、その人は、「ある人から『床を担いで歩きなさい』と言われただけで、自分には責任はない」と言い張ります。主イエスは、神殿でその人を見つけると、「あなたはもう良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない」と警告を与えますが、この人は自分を癒した人がイエスであると人々に告げ知らせてしまいます。主イエスに対する迫害は、この安息日、主イエスに癒されたこの人の告発によって始まります。
この日、他の人々も癒していた主イエスは、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ」と語り、安息日に人々を癒す正しさを告げます。人々は、この日から主イエスを殺そうとねらうようになります。安息日の掟を破り、自分を天の父と等しい者としたからです。ここで始まった迫害によって、主イエスはエルサレムの十字架で、人間の罪を赦すために屠られる羊となるのです。
人間が安息すべき日に、最も働いておられるのは神ご自身です。人間が健やかにされ、元気になり、癒されるために、安息日にこそ主なる神は、「良くなりたいか、元気になりたいか、癒されたいか」と、人間に呼びかけながら働いておられます。人間からの祈りに耳を傾けようとされています。
その神の呼びかけに私たちは正しく答えているでしょうか。「誰も私を助けてくれない。誰も私を顧みてくれない。誰も私の思いを理解してくれない」、そのような悲壮感や無力感を訴えていないでしょうか。順調でないことを誰かのせいにしようとし、真実に願い求めていることではないことを願い、自分にとって心地よい慰めと安息を得るために偽りの安息にその身を横たえて、神の御前に罪を重ねる人になっていないでしょうか。それは不健全で、見るべきものを見ることができない姿です。行くべき所に足を向けようとせず、全身が萎えきっている者の姿です。神の御前で異様な姿のまま、虚しさと偽りを愛して、不平と不満を訴え続ける人になってしまいます。
安息日は、神の御前に横たわり、自らの罪の姿を思い知って、悔い改める日です。「良くなりたいか」との呼びかけに祈りをもって応え、罪から離れて沈黙し、主の恵みと慈しみにその身を横たえる日です。虚しい偽りの安息から逃れ、真の安息を得ていく日なのです。

