「恵みの豊かさ」
説教要旨( 7月27日 朝礼拝 )
詩編 第25編 6 ~ 11節/ローマの信徒への手紙 第 5章15 ~ 17節
倉橋康夫
前段において、人類に罪と死をもたらしたアダムのことを語った上で、パウロはここでもう一人の人イエス・キリストのもたらしたものは何か、について語ります。<15しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません>、と言います。「比較にならない」とは、恵みの賜物が圧倒的である、ということです。そしてパウロは、15、16、17節のそれぞれに、<一人の罪>、<罪を犯した一人>、<一人の罪>と言って、アダムを引き合いに出しつつ、<一人の人イエス・キリスト>の場合とを対比させながら、論じようとします。罪によって全ての人が死ななければならない、これが人間の現実であり人間の悲惨です。けれども、そこから、神の恵みと主キリストの恵みの賜物を見ると、その豊かさに圧倒される、人間の悲惨が吹き飛んでしまうほどの「恵みの豊かさ」がそこにある、と言うのです。
ところで、主キリストの救いは、この世界を超えるもの、単にこの世界の中で満ち足りるということではなく、何ものにも左右されず、時間にも限定されない幸いを得るということです。その主キリストの救いから物事を見るならば、そこには<一人の罪によって多くの人が死ぬことになった>という現実はあるけれども、そのような人間の悲惨を吹き飛ばしてしまう程に、圧倒的に注がれている神の恵みが見えてくる、と言うのです。
そして更に、主キリストを通して、神から与えられる恵みの賜物は、裁きについても圧倒的なものがある、と言います。<罪を犯した一人によってもたらされたようなもの>とは、アダムの犯した罪であり、全人類の罪を指し示すものであり、そこから全ての人間が有罪であることが判明する、ということです。その有罪判決には、誰一人例外はなく、一つの罪も見逃されることはありません。ところが、そのような裁きにさらされている人間に対して、<恵みが働くとき>、<いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下される>、と言います。
併せて呼んだ詩編 第25編で、主なる神は、<恵み深く正しくいまし>、<罪人に道を示し>、<裁きをして・・・主の道を貧しい人に教えて>下さる、と言われます。<貧しい人>とは、ただ主なる神に依り頼む以外に生きる術を持たない人々のことです。主なる神の憐れみ、慈しみ、恵みの深さを讃え、それ故、主なる神の裁きは、主の道を貧しい者に示すものとなり、そして<主の道はすべて慈しみとまこと>であることが明らかになる、と言います。そしてこの詩人は、<主よ、・・・罪深いわたしをお赦しください>、と祈り求めるのです。このような、主なる神への讃美は、正に、主イエス・キリストにおいてその真実・正当なることが明らかになりました。そしてその祈り求めは、主キリストにおいて成就・実現した、聞き届けられたのです。
そして更に、一人の罪によってもたらされた死の支配に対して、今や<神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人(複数形)は、イエス・キリストを通して生き、支配するようになる>と言います。神の恵みと義の賜物とを豊かに受け続けている人々とは、新しい共同体、主キリストの体なる教会を指し示している、と考えることができます。主キリストによって救われた者は、支配するようになる、と言うのです。支配するとは、王になるということです。死によっても支配されることのない、自由な者とされて生きることができるのです。この信仰者の自由は、自らを僕とする自由でもあります。宗教改革者 ルターの「キリスト者の自由」が思い起こされます。全てのキリスト者は、全ての者の上に君臨する君主であり、全ての者に仕える僕である、とルターは言いました。そして、この自由は、教会として受け継ぐものなのです。
ただ神の「恵みの豊かさ」の中で、復活の主の命に結ばれて、神との平和・平安の中に生きる自由をキリスト者は与えられております。この「恵みの豊かさ」を噛み締め、味わいつつ、信仰の歩みを進めて参りましょう。

