「新しい命に生きる」
説教要旨( 8月10日 朝礼拝 )
エゼキエル書 第18章30 ~ 32節/ローマの信徒への手紙 第 6章 1 ~ 4節
倉橋康夫
パウロは、<では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。>、と言います。神の救いの恵みの絶大さを語ると、それなら、安心して罪にとどまっていて良い、と考える人々がいたのです。人間は何やかやと理屈をつけて、罪にとどまりたい、と願ってしまうものだ、ということでしょう。そこに、人間の悲しい本音のあることをパウロは知らされていました。福音を語り続けることによって、嫌というほど直面した人間の有り様でした。
パウロはそのような考え方に対して、<決してそうではない>、と激しく否定します。そんなことがあってたまるか、そんなことにならないように、とのパウロの祈るような思いが込められています。何故なら、「恵み」とは、主イエス・キリストによる恵み以外ではなく、主の十字架の死と復活の出来事を指すのであって、その主の恵みが、罪の中にとどまる口実にされるなどとんでもない、とのパウロの思いがあるからです。
そこで、恵みを与えられた、ということは、どういうことなのかについて語ります。それは、<罪に対して死んだ>ということだ、と。罪との関係が断ち切られた、罪の中にぬくぬくと生きる心地良さを捨て去ったのです。従って、<なおも罪の中に生きる>状態に戻ることは考えられないのです。<罪の中に>とは、罪に浸って、罪の思いのままに、ということです。そこでは、言い訳や居直りしかなく、罪との戦いも悔い改めもありません。
併せて読んだ、エゼキエル書 第18章で、神の裁きの宣言は悔い改めへの招きであることが鮮明に語られています。バビロン捕囚の只中にあって、苦難を味わっていたイスラエルの民に、主なる神は何よりも悔い改めを求められたのです。主なる神のみ前に、いつでも人間の為すべきことが何であるかが示されています。
ところで、罪の思いのままに生きる生き方と絶縁して生きるとは、神との交わりの中で、神のみ旨に沿って生きる、ということです。人は、信仰によってどう変わるか、何が変わるかと言うと、それは神に対する態度が一変するということです。神のことが第一のこととなり、神のみ心に従って生きていきたい、と願うようになるのです。それは、罪との訣別であり、少なくとも、罪との訣別への決断であって、どうにかして罪にとどまろうとすることとは正反対です。
そこでパウロは、ひとたび恵みを与えられた、ということは、個人個人の体験において、具体的にはどのようなことなのか、について語ります。主キリストの十字架の死と復活による救いが、個人個人にどのようにして手渡されるかと言うと、洗礼によってだ、と言います。神の救いは、単なる理論でも思想でもなく、その人を根底から変える体験であり、根源的な経験がる筈だ、と言うのです。
<それともあなたがたは知らないのですか>、とパウロは迫ります。主キリストに結ばれるために洗礼を受けたのは、主の死に与るために洗礼を受けたということだ、と。<キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた>とは、「キリスト・イエスの中へと浸された」という意味です。この主キリストは、人間の罪のために十字架で死なれた主であり、そして同時に、父なる神によって死者の中から復活させられた方です。この主キリストの中へと浸された者は、先ず<罪に対して死んだ>のであり、そして、主が死者の中から復活させられたように、「新しい命に生きる」ことができる、と言います。主キリストの十字架の死も復活も、私たちが「新しい命に生きる」ためだった、と言うのです。
今や既に、私たちは新しい命に生かされています。罪に対して死に、自らの復活の望みに生きる、否、今既に永遠の命の中に生かされているからです。<新しい命に生きる>の「生きる」は「歩く」という字です。この地上の生活を、一歩一歩踏みしめて歩いて行く私たちなのです。

