「驚いてはならない」
説教要旨( 8月 17日 朝礼拝)
詩編 第119編33~40節/ヨハネによる福音書 第5章19~30節
伊藤英志
ユダヤ人たちは、安息日の定めを破って、人々を癒しておられた主イエスに、驚いていました。さらに主イエスが、神をご自分の父と呼んで、ご自分を神と等しい者とされたことにも驚いていました。
この驚きとは、ハッとした驚きや予想外の出来事ゆえの驚きではありません。ユダヤ人たちの驚きとは、主イエスを疑って、主イエスを怪しんで、主イエスを拒むことになる驚きでした。「これはいったいどういうことだ」、「これをどう理解するのか」といった不可解な思いになる驚きでした。
律法を犯したイエスを殺すしかないと考えたユダヤ人たちに向かって、主イエスは語ります。子とその父は同じ権威と権限をもち、父とその子は、本質において不可分であり、一体の存在である(19節)。当時の社会でそう考えられていた父と子の関わりよりも、もっと大きな業に、つまり神の子が十字架の死から復活することに、ユダヤ人たちは「驚くことになる」と告げます(20節)。復活した神の子について、「これはどういうことか」、「どれをどう理解するのか」と怪しみ、その事実を否定しようとすることになると告げます。
神の御業を疑うようになる人々に向かって主イエスは、「はっきり言っておく」を繰り返して、二つの真理について明確に語ります。「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている(24節)」、「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる(25節)」。
復活とは、自分で目を覚まして起き上がってくるのではありません。復活とは、神の子イエス・キリストが語る声を再び聞くことです。その声は死んでしまった者だけが聞くのではなく、現に今この地上を生きている者たちがすでに聞くことができる声です。主イエスの声を聞く人は、誰であっても死から命へとすでに移されているのです。
そのことに「驚いてはならない(28節)」と主イエスは告げています。主イエスご自身が今お語りになっていることを疑ってはならない。怪しんではならない。否定しようとしてはならない。なぜなら、死んでしまった者たちが皆、よみがえる時が迫って来ているからです。
「時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来る(28-29節)」。墓の中にいる者たち全員が復活するその目的は、善を行った者が命を受けるためであり、悪を行った者が裁きを受けるためです。このことに驚いてはならないのです。
善を行った者とは、神の子の言葉を聞いて、神の子をお遣わしになったお方を信じた者です。悪を行った者とは、神の子の言葉、すなわち天の父の言葉を、疑って、怪しみ、否定しようとした者です。この両者を区別するのが「神の裁き」です。詩編の御言葉にあるように、それは「良い裁き」です。民を回復させ、民を癒すための裁きなのです。
その裁きについての一切の権能は、今や十字架の死から復活した神の子イエス・キリストに委ねられました。主イエスは、「わたしの裁きは正しい(30節)」とお語りになり、主イエスが、新しい掟であり、新しい律法となり、新しい戒めとなりました。
主イエスは、情け容赦のない無慈悲で恐るべき裁きだけをなすお方ではありません。天の父、神の子が望んでおられるのは、この世を裁くことではなく、この世を救うことです。
主イエスの言葉に驚いてはなりません。安息日に、主イエスは今もその声を人々に聞かせようとしています。主イエスを疑わず、怪しまず、善を行う者となるように、人々に安息を与えて、人々を癒そうとしているのです。
定めの時に私たちは驚くことはありません。深い眠りの中で主イエス・キリストの御声を聞く時、私たちは復活して命を受けるのです。

