「神に属すること」
説教要旨( 8月24日 朝礼拝)
申命記 第 1 章 9~18 節/ルカによる福音書 第22章24~30節
橋本いずみ
神の民イスラエルは、神さまがイスラエルの父祖アブラハムに約束されたこと(創15:5-6、13-)の実現を目前にしていました。そして、神さまとイスラエルの関係は、神さまの救いの歴史は、約束の実現ということから始まるのです。
イスラエルの民が手にしている多くの民とその土地は、神が約束を果たされようとする、その思いによって与えられたものです。イスラエルの民は、神の力強い導きによって、エジプトでの奴隷の苦しみの中から、救い出されて、その後も神の助けを受けてきました。
けれども、民は神がどれほどまでにイスラエルの民を思って、導いてこられたかなど考えることなく、神に不満を訴え出てばかりいました。
それにもかかわらず、神さまは、このイスラエルの民を育てて、養ってくださいました。そして、祝福し、よきものを与え、大きな民へと成長させてくださったのです。
モーセは、神に召されてイスラエルの民に神の言葉を伝えるものとして、神の指導者としてイスラエルの民を率いてきましたけれども、神さまが、約束をされたことが、実現しようとしている今、もはや、わたし一人では、負うことができないというのです。
いよいよ、神さまの約束が実現へと向かい、モーセが民の重荷を担えないと言ったときに、不平不満を神に、モーセに訴えていたものの中から、神に属すること―神の御業に携わるものたちを召しだされるのです。
選ばれたものに、正しく真実を見極めるように、弱い者、貧しいものにも富める者力あるものと等しく公平であるように命じる。人の顔色をうかがってはならない。何故なら、選ばれたものが、携わることは、神に属することだからである。裁きに携わるものは、すべて神に対面しているのです。
わたしたちは、裁くものではなく、まず神に裁かれるものとして、立たされています。自らがなしてきたことに対して、神さまに問われて、申し開きをせねばならないときが来る。そして、わたしたちは、自分が何をしてきたか、神さまに問われる。
主の日の礼拝毎に、わたしたちは、自分が何をしてきたか申し上げる。ここでなされる礼拝は、来るべき主の日の先取りである。
合わせて、読んだ新約聖書で、イエスさまは、弟子に向かって話されます。これは、主の晩餐の後のこと、十字架に向かわれる直前のこと。
主イエスは、「だから、わたしの父がわたしに支配権を委ねて下さったように、わたしもあなたがたにそれを委ねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席について、飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」と仰る。
支配権が委ねられること、国を治めることは、申命記で裁判と言われていることです。秩序を保つために神の業に携わることです。
神にとって重荷でしかありえない、わたしたちを神は、主の食卓に招き、共に神の国を治めるものにしてくださるというのです。そこには、神の決意がある。それは、十字架を担われる神の決意である。重荷でしかないものの重荷-罪をすべて、主イエスが担ってくださいました。
わたしたちを、主の食卓に着かせ、神と共に治めるものとして神は選んで、秩序を守るためにお立てくださった。
わたしたちは、主の日ごとに教会に集い、主の食卓を囲む。これは、来るべき主の日の先取りである。
わたしたちには、この地上において、神に属することが委ねられている。それは、治めること、神の支配、秩序を表すことである。
神が用意して下さる食卓を待ち望みつつ、主の喜びをわたしたちの喜びとして、歩んでいきたいと願います。

