「主と一体になって」
説教要旨( 8月31日 朝礼拝 )
イザヤ書 第53章 5 ~ 6節/ローマの信徒への手紙 第 6章 1 ~ 9節
倉橋康夫
パウロは、<キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちは皆>(3節)、<その死にあずかるために洗礼を受けた>、と言い、続いて、<わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ>(「その死への洗礼を通して、彼と共に葬られ」(直訳))(4節)と言います。私たちは、主と共に葬られ、決定的に死んだ、ということです。そして、この主キリストと共なる死が、<新しい命に生きるため>に必要なこと、出発点、入り口となる、と言うのです。
そしてそのことが更に、5節前半で<キリストと一体になってその死の姿にあやかる>、と言い換えられます。主キリストの死の姿とは、あの十字架の死の姿です。併せて読んだイザヤ書 第53章に、<5彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。・・・・・6 /そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。>、とあります。苦難の主の僕と呼ばれるこのイザヤ書の預言は、主キリストが引き受けられた、人間の罪のための十字架を良く指し示している、と言われます。誠に、主キリストの十字架のお姿を彷彿させる、と言えます。主の十字架は、人間の死の姿と言うべきでしょう。それは、神に見棄てられての死、罪人である人間が受けるべき死の姿・罪人の死の姿です。
パウロは、この主の死の姿に肖り(あやかり)なさい、と言います。ここでは、「肖る」とは「主と一体になって」ということであり、接ぎ木された枝が、幹と命を一つにして養われ、成長することを意味します。パウロは「主キリストに接ぎ木される」(11 : 17)と言っています。そしてその場合、先ず主の死の姿に結びつけられるのです。主キリストの死の姿にあやかる、ということは、<古い自分がキリストと共に十字架につけられた>(6節)ことを意味する、と言います。<古い自分>とは、「我々の古き人間」(直訳)ということです。古い自分・罪に支配された自分の古い人間が主と共に十字架に付けられるということは、<罪に支配された体が滅ぼされ>るということだ、と言います。「罪の体」(直訳)とは、「罪の働く機会、座・場所、器」を意味すると説明されますが、罪に利用される私たち自身と、私たちと結びついた周辺の様々なもののことです。それらのものが滅ぼされる、と言います。それは、罪が無力にされることを意味し、ある人は「罪は陸に上げられた魚となる」と表現しています。このように、主キリストの死へと浸され(洗礼され)、主の死の姿に結ばれるとは、古い自分、罪の体が滅ぼされてしまうことですが、それは「主と一体になって」起こされる事態です。つまり、主キリストに接ぎ木されて起こることであり、洗礼を意味すると言うのです。
そこで、主の死にあやかることの次に、主の復活の姿にもあやかれる、と言います(5節b)。将来におけるキリスト者の希望です。既に、<わたしたちも、新しい命に生きる>者とされている、と言われました。この命の新しさに生きる歩みの先に、主の復活の姿に結び付けられる希望があるのです。
扨て、「主と一体になって」とは、主キリストに接ぎ木され、主から養分を頂いて成長することです。その成長は、洗礼を受けた時から始まっています。私たちは既に、復活の主に結び付けられて、その成長の過程を辿っています。Ⅱコリント書 第3章で、パウロは<18わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。>と言っています。「主と一体になって」生きることが許されている私たちです。主の霊の働き、聖霊によって、主の復活の姿と同じくされるのは、将来においてのことですが、今既に私たちはそこへと向かう歩みをしているのです。聖霊の確かなみ業の中に守られ、導かれて、この希望の成就に向かって、共々に信仰の歩みを進めて参りましょう。

