「神に生きる」
説教要旨( 9月 7日 朝礼拝 )
詩編 第84章 2 ~ 5節/ローマの信徒への手紙 第 6章 5 ~ 11節
倉橋康夫
滅びるしかない人間に、復活の望みが与えられたという喜びの中に生きるとは、別の角度から言うならどういうことになるかを、パウロは語ります。パウロは、<6わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。>、と。ここで私たちは、自分自身のことを振り返らされます。自分の日々の生活が、罪の奴隷となっていないか、ということを。
ところで、我々は、主の日毎に集まって礼拝を捧げます。この礼拝の主催者は、神ご自身です。主なる神の招きによって、礼拝が始められます。そこで、集められた私たちは、神のみ名を讃美しつつ、何よりも先ず告白するのは罪の悔い改めです。礼拝順序に、その項目が入れられています。誰もが、主なる神のみ前に立ち、自らの罪を告白しないわけにはいかないのです。私たちは、毎週、毎週、多くの罪を告白し、悔い改めなければならないことを自覚しています。これが、現実です。
ところで、そもそも、神のみ前に進み出て、自分の罪を洗いざらい申し出ることができる、ということ自体不思議なこと、と言うべきでしょう。普通ならば、厳しい刑罰を与えられるべきところです。人間の世界においても、殺人を犯した場合、自首することによって、若干減刑されることはあるとしても、刑罰は免れ得ません。ましてや、神は私たち人間を罰する権利をお持ちです。その神のみ前において、自分の罪を告白しつつ、礼拝をすることができるのは、罪の赦しが約束されているからに他なりません。そして、私たちが、神のみ前に進み出て、先ず罪を告白するのは、罪の奴隷とはなっていない、罪から解放されていること(7節)の何よりの証明である、と言えるのではないでしょうか。罪に引きずり回され、全くの奴隷状態であるならば、罪の告白そのものに至り得ない筈だからです。私たちの真剣な悔い改めと祈りを、主なる神は嘉し給う、喜んで受け入れて下さいます。このように、神の赦しの下に生きることが許されている、ということに私たちキリスト者の幸いがあるのです。
扨て、そこで、神の赦しの約束の下に生きるということは、どういうことを意味するかについて、更にパウロは言葉を続けます。<8わたしたちは、キリスト共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じています。>、と。よく知られた「あしあと」(1964 Margaret Fishback Powers)という詩があります。主イエスがいつも自分と一緒に歩んでいて下さったことを知らされた経験を綴った詩です。― 詩を紹介 ― 主キリストは、今既に私たちと共に歩んでいて下さる。<新しい命に生きる>(4節)と言われていたと同じく、私たちは主と同じ命に結ばれていることを意味しているのです。
パウロは、主キリストは復活させられ、<神に対して生きておられる>、と言います。つまり、神と堅く結びつけられ、神との交わりに生きておられる、と。従って、このような主キリストと共に生かされる私たちも、神に対して生きる、「神に生きる」者だ、と言って良いのです(11節)。
併せて読んだ詩編 第84編で、詩人は、神に向き合い、神と共に生かされ、神を讃美して生きることの幸いを高らかに、また切実に歌い上げています。今や私たちは、主キリストの執り成しの下に、主が共に生きて下さることによって、「神に生きる」歩みができるのです。現実には、弱さ故に迷いや躓きの多い歩みです。けれども、この世の様々な事柄に心を奪われるのではなく、「神に生きる」のです。此の週も集められ、共に礼拝をすることができました。ここに「神に生きる」ことの証しが立てられています。「神に生きる」者の喜びがあります。ここから、共々に(礼拝参加の叶わなかった兄弟姉妹も含めて)、罪赦された者の群れとして、此の新しい週を、「神に生きる」歩みとして始めましょう。

