「あなたたちが救われるために」
説教要旨( 9月 14日 朝礼拝)
申命記 第30章15~20節/ヨハネによる福音書 第5章31~47節
伊藤英志
「しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく」。主イエスは、ご自身を殺そうとしている人々が裁かれることなく死から命へと移っていくために、ご自身が誰であるかについて証しをしてきた者について、安息日での教えを続けます。
主イエスの時代、ある人物についての真実や事実を証明するのは、その本人が語る内容ではなく、その人についての事実を証しする第三者の証言でした。主イエスご自身の真実について証しする方とは、父なる神です。
父なる神がなさる証しについて教える前に、主イエスは洗礼者ヨハネの存在を人々に思い起こさせます。洗礼者ヨハネは、神の子であり、世の罪を取り除く神の子羊について証ししていましたが、人々はその方が誰なのか、今どこにいるか、わからずにいました。それは当然のことで、主イエスが誰であるのかを、人間が明らかにすることは不可能でした。主イエスは、「人間による証しは受けない(31節)」お方であるからです。
「しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある(36節)」と告げる主イエスは、ご自身についての真実なる証しをすでに人々に示していました。それは天の父が主イエスに「成し遂げるようにお与えになった業(36節)」の数々です。人々を弟子とし、癒し、裁きと救いについて教え、死と命について告げる、そうした業の全てが、主イエスが天の父から遣わされた者であることを証ししています。その究極のしるしが、神の子イエスが十字架にかけられる業です。主イエスは「成し遂げられた(19:30)」と言って死を遂げます。
しかし、天の父の御心を成し遂げていることを示す業を、人々が受け入れないことを主イエスは知っています。人々は「父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない(37節)」からであり、「また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない(38節)」からです。ですから、そのような人々にこそ、救いが必要であったのです。
神への罪による裁きと滅びから救われようとしていたユダヤ人は、安息日に会堂に集い、「聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究して(39節)」いました。ここでの聖書とは旧約聖書、その中でも特に創世記から申命記までの律法の書をさします。しかし、その律法の書とは、主イエスについて証しをする(39節)ためのものでした。それなのに、人々は、「命を得るためにわたしのところへ来ようとしない(40節)」のでした。
エルサレムの人々が向かっていた先とは、人々が自分についての心地よい誉れを語ってくれること(証言)でした。人々から褒められ、人々から讃えられる、つまり人間からの愛でした。そこには「神への愛がない(42節)」人間の姿しかありません。人間が、互いに与え合う誉れに酔いしれながら、人間に寄り頼んでいく姿は、神の裁きを忘れた姿です。天の父の怒りを招く、罪ある人間の姿です。
罪ある人間を訴追するのは、律法の人モーセ、つまり神の律法そのものです。この神の律法が、神と人間との接点になるという、律法がもつ本来の働きを取り戻させるために、神の子イエスがこの世に遣わされたのです。
律法は、命と幸い、死と災い、生と死を、すでに人々の前に置きました。「あなたは、命を選び・・命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい(申命記30:19-20)」。それはまさに、神への愛なき人間に向けた主イエスからの教えです。
地上の人間は、人間からの誉れや、人間からの愛を取引することに夢中になって、神の裁きを忘れ、神への愛を容易に見失ってしまいます。ですから、人間には神の救い、罪の赦しが必要なのです。
この主の日は、人間が自らの姿を思い返し、悔い改めを深くする日です。神への愛なき姿を思い起こすための日です。そうして私たちは真の安息をこの地上で得ていきます。主の裁き日、真の救いが成し遂げられる時、私たちは主の御声を聞き、主の御姿を見るのです。

