「自分自身を神に献げよ」
説教要旨( 9月21日 朝礼拝 )
イザヤ書 第57章16 ~21節/ローマの信徒への手紙 第 6章11~14節
倉橋康夫
パウロは11節で、主キリストの十字架の死と復活に結ばれて信仰者となったあなたがたは、その信仰の故に神に義と認められているのであって、その事実を認めなさい、信じなさい、と言います。そのように、神の恵みを信じていいのだ、とうことです。ある人は、「キリスト・イエスを信じている者にとっては、その全生活が、キリストの死と復活によって守られている」と言っています。そしてパウロは、あなたがたは既に<神に対して生きている>、そのような者とされている、と信じて良いと言います。その根拠は、<キリスト・イエスに結ばれて>いる、ということにあります。それは、主の死と復活に与る洗礼を受けて、主キリストの体なる教会に入れられている、ということです。この具体的な生活、教会に結ばれて生きているということこそ、神に対して生きていることの証しに他なりません。
このように、神に対して生きる者とされているのだから、あなたがたは、<あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて>はならない、<あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せて>はならない、と言います。パウロはここで、人間の具体的な行為を考えております。その行為が、神に背く思いから出てきていないかどうか、自分勝手な、自己中心的思いからではないか、が問題なのです。
しかしパウロは、あなたがたは<死者の中から生き返った者>だ、と言います。死者の中から復活されたのは、主イエス・キリストのみです。しかし、このキリストを信じ、キリストに結ばれた者は、既に復活の命に結ばれています。<死ぬべき体>をもって歩みつつ、復活の命の中に生きているのです。つまり、<死ぬべき体>が全てではないことを知って生きている、ということです。従って、この世の欲望のままに生きるのではなく、復活の望みの下に生きるのです。今・この時が良ければいい、というのではなく、来るべき時を目指して生きています。
あなたがたは、<不義のための道具>となるのではない、<義のための道具>となるのだ、と言います。神の義のための道具とは、何でしょうか。広く知られている、「平和を求める祈り」(アッシジのフランチェスコ)の中に、「わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。・・・・・絶望のあるところに希望を、闇に光を、悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください」との祈りの言葉があります。この祈りは、私たち自身の祈りでもあります。神の義の実現が、真の平和が打ち立てられるという形で現れる、と言うことができるのです。
併せて読んだイザヤ書 第57章に、神の憐れみによる救いについて述べられています。<18・・・民のうちの嘆く人々のために/19わたしは唇の実りを創造し、与えよう。/平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。/わたしは彼をいやす、と主は言われる。>とあります。神の憐れみによる救いは、救われた者が「平和(シャロ-ム)」を告げ知らせる讃美と感謝へと実を結ぶのです。神の義の実現は、何よりも、神が神として崇められることです。全ての人間が、神の救いのみ業に触れ、神のみ名を讃美するようになることです。
そのことのために、「自分自身を神に献げよ」とパウロは言います。このように、自分自身を神に献げるということは、神の義のため、主キリストによる神の救いのために生きることに他なりません。それは、神の義、神の救いを証しする歩みに他なりません。あなたがたは既に、そのように生きることができる環境にある、と言います。なぜなら、14節にあるように、最早あなたがたを罪は支配することはない、あなたがたは律法の断罪にさらされているのではなく、神の恵みの下に迎え入れられているからだ、と言うのです。「自分自身を神に献げよ」 神の恵みの下に生かされている者として、思いを新たに、此の週の歩みを始めたいと思います。

