「自由と服従」
説教要旨( 9月28日 朝礼拝 )
詩編 第33編 1 ~11節/ローマの信徒への手紙 第 6章15~23節
倉橋康夫
本日の個所の直前の14節で、<罪は、もはや、あなたがたを支配することはない・・・・・ あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいる>、との言葉を受けて、<恵みの下にいるのだから、罪を犯してよい>、と言い出す者がいた、或いは予想されたようです。しかしパウロは、断固として否定します。第6章の初めでもそうであったように、<決してそうではない>と言い、次に<知らないのですか>と言って、身近な例を引き合いに出しながら、救われた者の生き方とはどのようなものなのか、を説明します。そしてここでは、分かり易い例として、奴隷のあり方を考えてみよう、と言うのです。<あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。>、と。そして、そこには、罪の奴隷か、神への従順か、二つの選択肢しかない、と指摘します。
この<従順>という字は、「聞く」が語源です。聴いて従うこと、聴従です。その声は、どのような声なのでしょうか。確かに、私たちは、色々な声を聞き分けながら生活をしています。この世の中には様々な声が入り混じり、響き渡っております。そこで、服従すべき声、神の声、主キリストの声を聞き分け、選び取って、私たちは生きています。(ヨハネ福音書 第10章3 ~ 5、14 ~ 16節参照)
神の声に聴き従う道とは、神の言葉に服従する道です。どこからともなく聞こえてくる神の声なのではなく、既に与えられている神のみ言葉のことです。それは、第一義的には、聖書そのものです。併せて読んだ、詩編 第33編に、神のみ言葉への信頼と讃美が歌われています。<4主の御言葉は正しく/御業はすべて真実。/5主は恵みの業と裁きを愛し/地は主の慈しみに満ちている。・・・・・11主の企てはとこしえに立ち/御心の計らいは代々に続く。>、と。
そしてまた、聖書から導き出された言葉も神の言葉と言えるでしょう。17、18節に、次のように言われています。<17しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、18罪から解放され、義に仕えるようになりました。>、と。ここで先ず、<しかし、神に感謝します。>、と言っています。どちらの奴隷として、自分自身を献げるか、その人の主体的決断に掛かっていることを指摘しつつも、神の言葉に服従する者となったことについて、神に感謝を捧げるのです。<義に仕えるようになりました>は、「義に仕えるようにされた」(受動態)です。背後には、神の導き、神の選びがあった、と信じているのです。神の言葉に服従する歩みは、神ご自身が働いて下さるのでなければ、不可能であることを、信仰者は一番良く知っていることです。
<伝えられた教えの規範>とは、教理・信条と考えて良いでしょう。単数形であることから、その核心部分、主キリストの出来事、十字架と復活(これは表裏一体)を指す、と考えることもできます。キリスト教信仰を受け入れ、その信仰によって生きるようになったことを、パウロは、<罪から解放され、義に仕えるようになりました。>、と言います。義とは、何よりも神の義です。そして、義への服従とは、神のみを神とすることであり、神の奴隷となって、神のみ言葉に聴き従い、神の為し給うことに一切を委ねて生きることです。そこに、罪から自由にされた者の生き方があります。
「自由と服従」と言うと、相反すること、矛盾することのように見えます。しかし、「自由と服従」とは、救われた者の生き方に他なりません。主キリストは、<あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。>(ヨハネ16 : 33)、と言われました。主と共に歩んで下さり励まして下さいます。心許ない私たちの歩みではあります。しかし、聖霊の助けによって、罪からの自由と義への服従に生きる者として、進んで参りましょう。

