「賜物としての永遠の命」
説教要旨(10月 5日 朝礼拝 )
詩編 第86編 5 ~10節/ローマの信徒への手紙 第 6章15~23節
倉橋康夫
パウロは、ローマの教会の人々に、かつて自分たちのあり方がどうであったかを何度も繰り返し思い起こさせながら、話を進めています。そして、<17しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、18罪から解放され、義に仕えるようになりました。>、と言います。「罪から解放され、義に仕えるようにされた」(18節、直訳)と言うのです。そして更に、<かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていた>(19節b)ことを指摘しつつ、(今は神の言葉に自分を託し、心から従うようにされているのだから、)<聖なる生活を送りなさい>と言います。主体的決断を求めます。今、自分自身を献げよ、今<義の奴隷として献げて>、聖なる生活をせよ、と。
「聖なる」とは、神のために取って置くことです。ですから、「聖なる生活」とは、日々の生活が、神のための歩みとなる、自分自身を神に献げること、を意味しています。そしてそのように、日々の生活が整えられ、方向づけられるのは、主の日の礼拝によってである、と言えるでしょう。私たちは、主の日を聖なる日、神を礼拝する日として、共に集います。この礼拝によって、私たちは自己形成をしている、させられていると言えるのです。
<20罪の奴隷であったときは、義に対して自由の身でした。>と言います。神の義に対して自由だった、神のことなど何も考えず、意にも介さず、ただ自分の好きなように、自由に生きていた、と。しかし、振り返ってみるならば、自由に生きていたと思ったのは錯覚で、実は罪の奴隷として生きていたのであって、今では恥ずかしいと思うことばかりであろう、と言います。そして、そのように、神との関わりを拒絶し、自らを神とするような歩みの行き着くところは、<死に他ならない>(21節)と言います。
しかしながら、<22あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。>、と続けます。今あなたがたが置かれている状況は、如何に驚くべき恵みの状況であるかを強調するのです。「しかし今や」(原文)とは、論理的帰結ではないこと、驚くべき逆転を意味します。「罪から自由にされ、神の奴隷とされた」と。いずれも受身形です。神がそのようにして下さった、恵みのみ業があなたがたの身に行われた、罪から自由にされ、神の奴隷とされた、と。そして、あなたがたの今の歩みは、<聖なる生活の実を結んでいる>ものだ、と言います。
<聖なる生活の実>は、単数形です。つまり、唯一つのこと、具体的な様々なことを生み出す根本的なことを指しているように思われます。それは、悔い改めて、神の許に立ち返ること、と言って良いでしょう。併せて読んだ詩編 第86編には、悔い改めて神に立ち返る者に、赦しを与えて下さる神が讃美され、そしてその神の<驚くべき御業>への讃美が言い表されています。
ここの<驚くべき御業>とは、天地創造、出エジプト、捕囚からの解放等が考えられるでしょう。そして、この主なる神の御業の延長線上に、しかも最終的に、主イエス・キリストの出来事が起こされたことを私たちは知っています。従って、この<驚くべき御業>とは、主キリストの出来事を指し示している、と受け止めることができます。
最後に、<罪が支払う報酬は死>と言い、<しかし、神の賜物は、主キリスト・イエスによる永遠の命>である、と言います。悔い改めて、神に立ち返る歩みを重ねた者には、贈り物として永遠の命が与えられる、と言うのです。最高の神の賜物は、永遠の命に他なりません。今既に、この「神の賜物としての永遠の命」に生かされていることに感謝し、そして、来るべき時、この永遠の命を完全に味わうことのできることを待ち望みつつ、信仰の歩みを進めて参りたいと思います。

