「あなたの中にある光」
説教要旨( 10月 12日 夕礼拝)
ルカによる福音書 第11章33~36節
伊藤英志
「だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」。悪霊を追い出す奇跡を示して、群衆に教えを説いていた主イエスは、教えを聞いていた群衆の姿について告げています。エルサレムへ向かう旅の道中で、弟子たちに「主の祈り」をお教えになった主イエスがお示しになった奇跡の業とは、神の国の到来を告げ知らせるための業でした。神の国の到来を知った人々は、神の御前で自らの罪ある姿を悔い改めるべきであるのに、人々の目は、今、驚くべき奇跡の業を見たいと願う目になっていました。その目に光はありません。見るべきものを見る光が、人々の目から失われています。
「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い(34節)」。古代の人々にとって目が見えるとは、自分の目が光を放ち、自分に向かってくる光と自分の目が放つ光が出会うことによると理解されていました。
人間の体を照らす光は目にあります。ともし火とは、ランプの灯のような小さな灯です。目が澄んでいるとは、目が健全で正しく働いている状態で、その人の全身は明るく輝き、すべてのことがよく見える、よく理解できるということです。しかし、その目が濁っていれば、体から光が放たれることなく身体全体が暗くなってしまうのです。
「濁った目」とは、よこしまな目を意味します。直前の29節「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがる」と説いた主イエスにつながります。よこしまな目とは、ただ奇跡を見たいだけの目です。その「よこしまさ」とは、労苦、悩み、危険な状態という意味を併せ持っています。濁った目、よこしまな目では、労苦を負い、悩みを深くし、危険に向かうということです。ここでの目は、単数形で記されており、身体的な意味での目ではなく、物事を見極めるための霊的な意味での「ひとつなる目」を意味しています。その霊の目が濁っていれば、その人の全身を暗くし、全身は闇に包まれてしまうのです。
「だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」と主イエスは告げます。あなたの中に、ランプの小さな灯のように神が灯してくださった、本来あるはずの光が暗くなっていないか確かめよ、ということです。その小さな光は、あなたの全体をほのかに照らし出すもので、あなたの霊が見るべきものを見ることができるようしてくださる光です。それが消えてしまえば、一瞬にして暗闇がその人を支配してしまいます。
しかし、多くの人々が、このともし火が暗くなり消えかかることに注意を向けようとはしません。なぜなら、人間は自分の力で作り出す光が放つ、その輝きでもって自分を照らしながら生きようとするからです。この世では、名声、名誉、成功、業績といった言葉で人間が作り出す光を表現します。そうした人間と世が作り出す光が、あなたの中にあるともし火の光を覆い隠そうとするのです。主イエスを十字架にかけた人間の闇も、濁った目となった人間の中にあるともし火が、闇の力に覆い隠されたために生じた闇です。
この世が作り出そうとする光の中で、自分が作る光だけに頼って生き抜こうとする時、私たちそれぞれの中にあるともし火は揺れて消えそうになります。神が私たちにお望みになっている姿は、ともし火が消えた闇の中で悩みや労苦にまみれて危険な姿で生きるのではなく、各人の中に静かに灯っている小さなともし火の光が全身を輝かせている姿です。ともし火に立ちかえる時、闇の支配に屈する自分の姿に気付きます。それが自分自身を悔い改めようとする人が達する霊の姿です。
人間自らが作り出した光を一旦消して、あなたの中にある光と向き合う時、濁った目で全てを理解したかのように振る舞う、よこしまな人間の姿はありません。「主の祈り」を祈りつつ、自らを悔い改めようとする私たちは、自分の中にあるともし火を澄んだ目でしっかりと見つめながら、永遠の光の輝きに満ちた神の国に向ってこれからも歩み続けるのです。

