「新しい生き方」
説教要旨(10月19日 朝礼拝 )
申命記 第4章25 ~31節/ローマの信徒への手紙 第 7章 1~6節
倉橋康夫
律法とどのように関わるかによって、神の恵みを台無しにし、信仰生活を間違ったものにしてしまう、とパウロは恐れました。このことは、ユダヤ人だけの問題ではなく、私たちキリスト者全てが問われることです。私たちもまた、律法主義に陥る危険を常に持っているからです。キリスト者であることを、何かの形にして現し、それを誇るという危険です。キリスト者の生き方として、自ずと薫り出るものがあることは尊いことです。しかし、それを誇り、自分の救いに役立つかのように思い上がると間違いが起こります。そして、そのような発想から、他人を裁くという間違いも生まれるのです。
ところで、パウロは、律法との誤った関わりについて語るに当たり、結婚・夫婦の関係を持ち出します。結婚の関係は、妻の方からするなら、夫の生存中は夫に繋がれており、法(律法)がそれを保証しているようなものです。しかし、夫が死ねば、夫から自由になり、法(律法)の規制からも自由にされます。この夫から自由になり、法(律法)から自由になる、ということを、律法の束縛から解放されることになぞらえるのです。
扨て、<4ところで、兄弟たち>、と改めてローマの信徒たちに呼びかけ、あなたがたは既に、<キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となって>いる、と言います。妻を縛り付けている夫が死ねば、律法から解放され自由になると言ったが、実際は、律法が死ぬのではなく、自分自身が律法に対して死ぬことだ、と言うのです。そこで、律法との間違った関係について、<5わたしたちが肉に従って生きている間は、罪に誘う欲情が律法によって五体に働き、死に至る実を結んでいました。>、と言います。霊に従う」の反対に、神を信じないで、人間的な思いのままに、<罪へ誘う欲情>に生きるのです。自分を誇り、他人を裁き、自分の身勝手な思いを貫いて、自己中心的に生きることになるのです。そのような歩みは、<死に至る実を結んで>いるものでしかない、と言います。
けれども、主キリストの救いを信じて洗礼を受けた者は、<キリストの体に結ばれて>、律法との誤った関わりから自由にされ、<死者の中から復活させられた方のもの>となった、と言うのです。この<キリストの体>とは、ここでは、「十字架の主の体」と理解することができます。第6章8節で、<わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます>、と言われていたことに通じます。
キリスト者は、死者の中から復活させられた主キリストのもの・主キリストの所有とされた者です。ここに、キリスト者の幸いがあります。(ハイデルベルク信仰問答1参照)このように、復活の主の命に結ばれて生きる歩みは、<神に対して実を結ぶ>ものとなります。神に対する実とは、悔い改めです。主キリストは、私たちをご自分のものとしていて下さる。だからこそ、悔い改めて、何度でも、神のもと、主キリストのもとに帰ることが許されるのです。
併せて読んだ申命記 第4章で、モーセはイスラエルの民に心を込めて勧告をしています。イスラエルの民が、また再び偶像礼拝の過ちに陥ることになると指摘しますが、しかし<あなたはあなたの神、主のもとに立ち帰り、その声に聞き従う。>、と言って励ますのです。これは正に、私たち自身の歩みを指し示している、と言えます。不甲斐ない歩みを繰り返してしまいながらではあっても、主のもとに立ち帰ることが許されて、信仰の歩みを進めているのです。
そのように生きることを、パウロは<“霊”に従う新しい生き方>と言います(6節)。今や、私たちは、主キリストのものとされ、神に対する実・悔い改めの実を結ぶ、「新しい生き方」をする者とされています。神のもと、主キリストのもとに立ち帰るところに、新しさがある、と言って良いでしょう。悔い改めの度に、私たちは新しくされるからです。

