「この人たちに食べさせる」
説教要旨( 10月 26日 朝礼拝)
列王記下 第4章42~44節/ヨハネによる福音書 第6章1~15節
伊藤英志
エルサレムにおいて安息日に病人たちを癒し、御自身について教えられた主イエスは、弟子たちと一緒にガリラヤ湖の向こう岸に渡って、さらに山に登ります。癒しの奇跡を目にした大勢の群衆たちも一行の後を追って行きます。過越祭を間近にしていた頃です。
過越祭は、神の救いの業である出エジプトの出来事を記念し、出エジプトの民を導いたモーセとその教えに心を向ける時です。過越祭ではモーセのような指導者が再び現れて民が苦境から救い出されることを願いました。奇跡の業を見た群衆は主イエスがモーセのような預言者ではないかと考え、さらなる奇跡の業を見ようとして主イエスの後を追います。
主イエス一行と群衆がガリラヤ湖を渡って山に登る様子は、エジプト軍の追手を振り切って民が海を渡り、モーセが山の上で神からの戒め「十戒」を授かったという出エジプトの出来事と重なります。主イエスは、ここで新しい戒め、新しい教えを人々に示そうとします。
大勢の群衆を食べさせることは不可能であると言い続ける弟子たちに主イエスは命じます。「人々を座らせなさい」。そして一人の少年が手にしていた大麦のパン五つと魚二匹を手にとって、座っている人々に欲しいだけ分け与えて人々は満腹します。それは出エジプトの民が飢えないようにと神が天から与えたマナの出来事が再現されているかのようです。
満腹した人々は、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と考えて、主イエスを王にしようと願って連れて行こうとしますが、主イエスはおひとりで山の中へと立ち去って行きました。群衆が望む姿でこの世の王になるために、主イエスはこの地上に遣わされたのではなかったからです。
主イエスが、山の上で人々に示した新しい戒めとは、続く35節、48節、51節で語り示されている通りに、主イエスご自身が「命のパンである」ということです。ヨハネによる福音書は、主イエスの十字架の出来事を過越祭においてほふられる子羊として証言しています。主イエスの身体が裂かれたことが、新しい救いの出来事であり、新しい戒めであり、新しい律法となるからです。
残ったパンの屑で12の籠がいっぱいになったことは、カナの婚礼の席で石がめにいっぱいに満たした水がブドウ酒に変わった出来事を想起させます。十字架で裂かれた主イエスの身体であるパンと、流された血である杯が、新しい律法となるのです。
主イエスの後を追った群衆は、奇跡の業をもっと見ることによって自分たちの願いを満足させようとしました。しかし、そのような人々は飢えていました。パンがなくて空腹であったというより、人々の霊が食べるべき、霊を満たす食物を渇望していたのです。
大麦のパン五つと魚二匹は、旧約聖書を示しているも考えられます。モーセの律法であるモーセ五書が五つのパン、預言書と諸書が二匹の魚です。人々の霊を満腹させるのは、全ての民の救い主が到来することを預言した「神の言葉」であるはずです。十字架による新しい律法に従っていくためには、人々の飢えた霊は、神の言葉、霊の糧にまず満たされなければならなかったのです。
身体に必要な糧に満たされた多くの人間の霊は、自分の霊を楽しませる心躍るような出来事を渇望していくようになります。そのような霊は今日でも飢えています。霊の食物が断たれた中で、人々の霊は神を見捨てるほどの飢餓状態に置かれていきます。そうした人々の霊が主イエスを十字架にかけるのです。
神は、今も、そうした人たちの霊が食べるべき霊の糧を食べさせようとしておられます。「この人々に食べさせる」ために、主イエス・キリストの十字架と復活という新しい律法が私たちの霊をも満たそうとしています。食べきれずに残してしまうほどの恵みを受けて、私たちも、この地上という海を渡り、永遠の御国につながる道を登っていくのです。

