「わたしたちの本国」
説教要旨( 11月 2日 朝礼拝 逝去者記念礼拝)
詩編 第23編1~6節/ヘブライ人への手紙 第3章17~第4章1節
倉橋康夫
パウロは、ただひたすら、主の十字架の死と復活の出来事に集中し、そこから与えられる希望を生き抜いた人です。ところが、<キリストの十字架に敵対して>歩む者が多いことを憂え、<何度も言ってきたし、今また涙ながらに言います>、と訴えています。十字架に敵対するとは、主キリストの十字架を虚しくすること、その恵みを理解せず、受け入れないことを意味します。そのような人々が大勢いる、しかも教会の中にいるのです。
このような事態が生じるのは、<彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていない>からだ、とパウロは言います。このような生き方をする<彼らの行き着くところは滅び>でしかない、と指摘します。滅びを目標にして歩いているようなものだ、と言うのです。
併せて読んだ詩編 第23編に、<主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。>、とあります。これは、主なる神が、神の名に相応しく、自分を導いて下さることの確信を述べているのです。神の名に相応しい正しい道とは、神が神となって下さることに他なりません。神の義が貫かれることです。それは即ち、主キリストの十字架を通して、人間に救いが与えられることに通じるのです。そして、この詩人は最終的に、<主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。>、と言います。<生涯>とは地上の区切られた時間を意味するのではなく、「いつまでも」と受け止めて良いでしょう。主なる神の許に帰って、そこにいつまでも留まる、と言うのです。
パウロは、主キリストの十字架の恵みを弁えないで歩むことが、如何に間違っているか、その結果が如何に惨めなものであるかを語った上で、<しかし、わたしたちの本国は天にあります。>と、高らかに、誇らしく言います。つまり、地上のことに囚われ、欲得に動かされて生きることが、主の十字架に敵対するものだ、と言ったのは、そもそも私たちは本国を天に持つ者とされているからなのだ、と言うのです。
そして、その天から、<主イエス・キリストが救い主として来られるのをわたしたちは待っています。>、と言います。主イエス・キリストが再び来られる。しかも、救い主としてもう一度来られる、と言うのです。主イエス・キリストの救いのみ業は、十字架の死によるものでした。そこで私たちの罪が引き受けられ、罪の赦しが与えられたのです。そこで、救い主としてのみ業は成し遂げられ、終わった筈です。然るに、その主イエス・キリストが再び<救い主として>来られる、と言います。そして、<わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる>のだと。
<卑しい体>とは、滅ぶべき体のことであり、死に定められた人間存在のことです。それに対して、<栄光ある体>とは、死を克服した主キリストの復活の体を意味します。<わたしたちの卑しい体>を、主の栄光ある体と同じに形に変えて下さる、と言います。つまり、主イエス・キリストが十字架において成し遂げて下さった救いを完成するために再び来て下さる、ということでしょう。十字架の罪の赦しは、復活において完成するものであることが、立証されるというのです。
「だから、主にあって立て」(直訳)、十字架に敵対する歩み、この地上のものに囚われ、支配される歩みを捨て、天にある本国に望みを置き、天に属する者としての生活を確立しなさい、と勧めます。主の十字架によって、この世から自由にされた者として生きる。それは、天にある本国を与えられているからです。そして、本国を天に持つ者こそが、この世に深く関わって、責任ある歩みを為すことができます。それは、この地上のことに左右される必要がないからです。私たちの信仰と希望の所在と根拠を確認しつつ、信仰の先達に続く私たちの歩みを進めて参りましょう。

