「恐れることはない」
説教要旨( 11月 9日 朝礼拝 )
イザヤ書 第29章15節/ヨハネによる福音書 第6章16~21節
伊藤英志
弟子たちは、自分たちだけでガリラヤ湖を渡ってカファルナウムへ行こうと舟を漕ぎ出していきました。弟子たちの何人かは漁師であり、夜であっても目的地に着くことができる自信があったのでしょう。しかし沖に漕ぎ出すにつれ、次第に強い風が吹き始め、湖は荒れ始めます。それは恐ろしかったはずです。
弟子たちは湖の真ん中あたりに差し掛かります。すると、湖の上を誰かが歩いて舟に近づいてくるのを弟子たちは見て恐れます。ここでの恐れとは、全てを投げ出してその場から逃げ出したくなるほどの恐怖心を抱くことです。呆然とする者、うずくまる者、叫び声をあげる者、おびえて震えている者、弟子たちは舟の上でそのようになったことでしょう。
「わたしだ」とは、「わたしである、わたしがいる」とも言える言葉です。それが主イエスの声だと知った弟子たちは正気を取り戻して、湖の上にいる主イエスを舟に迎え入れようとします。元の言葉では「舟に迎え入れようと願い続けた」という表現です。それは、弟子たちが差し出す手を、主イエスがすぐに取って舟に乗り込んだのではなかったことを意味します。むしろ、主イエスは、闇の中で波風にさらされながら舟に乗っている弟子たちを間近で見守り続け、何度も弟子たちに向って語り続けます。「わたしだ。恐れることはない。」すると、舟は目指す地に着いたのです。
五千人の空腹を満たした山の上での奇跡を体験した弟子たちは、「この人こそ、世に来られる預言者である」と確信した群衆と共に、イスラエルに新しい王が立つことを確信したはずです。弟子たちも興奮と自信にあふれていたはずです。自分たちには「もはや何も恐れるものはない」と考え、自分たちの力や自負心によって、物事を判断するようになっていきます。「主イエスの弟子である」という自覚が、主イエスを信じる思いではなくなり、主イエスに従っている自分たちを信じることにすり替わっていくのです。
闇の中へと漕ぎ出した弟子たちに、主イエスを呼び求める声はなく、主イエスから助けを願うこともありません。弟子たちの心の中にも、主イエスの姿はなかったのです。そして、湖の上に現れた主イエスの姿に、安心や喜びや感謝ではなく、恐れをなすのです。
この出来事は、私たち自身の姿が示されています。主イエスと共にある自分たちの自負心と誇り、自分たちの経験と実績、優越感と自尊心が、闇の中へと舟を漕ぎ出させていきます。そして、強い強風に襲われて、舟が転覆しそうになる、闇の中の災いへと向かっていきます。その舟とは教会のことです。主イエスなき舟、主イエスなき教会の姿なのです。
主イエスなき教会とは、人間関係にただ依存するだけの集団です。義理や人情や気遣いなどが取引されて形作られる人間関係が大切なものとなります。そうした人々にとって主イエスは邪魔な存在となり、舞台裏の闇の中で物事を判断していくのを好むようになります。イザヤ書にも記されているように、そうした「主を避けて謀を深く隠す者」によって、主イエスは十字架につけられてしまうのです。
教会に集う者たちが自分たちを取り巻く人間関係だけを信じる集団となった時、そこに主イエスはいません。闇に包まれた災いに向かってただ進んでいくだけです。私たちにとって最も恐るべき災いとは、人間関係を重んじようとして主の御言葉を失うことなのです。
「わたしだ。わたしがあなたと共にいる。だから恐れることはない。」私たちの傍らでそのように語り続けておられるのが主イエス・キリストです。その御声を聞き続ける者たちが、主イエスを舟に迎え入れようと願い続けていく、主イエスが共にい続けてくださるように祈り続ける。その信仰が、恐怖から喜びへ、滅びから命へと、私たちを導き出します。
この主イエスの御声を聞き続け、深い悔い改めを隠すことなく顕わにし、主イエスが共にいてくださるよう願い続ける時、私たち一同にとっての目指すべき地、永遠の神の国へと、この私たちもたどり着くのです。

