「父なる神さま」
説教要旨(11月16日 朝礼拝 教会学校との合同礼拝)
コリントの信徒への手紙一 第 8章 6節
倉橋康夫
今日は、教会学校の生徒と教会員関係の子どもたちと、一般礼拝参加者とが一緒の合同礼拝です。
今日の礼拝に与えられた聖書個所は、コリントの信徒への手紙一 第 8章6節です。ここに、<6わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。>、と書かれています。
みなさんは、神さまってどのような方だと思いますか。どこに居られて、何をされている方でしょうか。そうです、天におられます。そして、いつも私たちを見守っていて下さいます。そしてまた、このようにみんなで礼拝をしている時に、目に見えないけれども、ここに居て、私たちの礼拝を喜んで受けていて下さいます。ここには、お年寄りから、赤ちゃんまで、富士見町教会に繋がっている人たちがいます。勿論、ここに来られない人たちも大勢います。病気のため、老人で体が不自由になって、都合がつかなくて、来たかったけれども、来られなかったのです。そのような人たちのことも私たちは覚えながら、みんなで、神さまとイエスさまを礼拝しているのです。神さま・イエスさま、いつも私たちを見守って下さってありがとうございます、って感謝し、ほめたたえているのです。
今日の聖書は、<わたしたちにとっては、唯一の神、・・・・。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ>る、と言っています。私たち、教会に繋がっている人にとって、一番嬉しく、大切で、感謝したいことは、このことだ、と言うのです。「わたしたちにとっては、唯一の神、また唯一の主イエス・キリストが居られる」。これ程嬉しく、心強く、感謝なことはないからです。だから、私たちは、このように、日曜日毎に、教会に集まって礼拝を捧げるのです。普段の日曜日は、教会学校(幼小科と中高科)と、一般礼拝に分かれてしているけれども、それぞれに礼拝を捧げています。そのように、教会は何よりも、神さまを礼拝する処です。
このように、礼拝を捧げることを最も大事にするのは、唯一の神さまと唯一のイエスさまが居られ、私たちをいつも守り、支え、導いていて下さる、と信じているからです。「唯一の」って言うのは、唯おひとり、ということです。私たちには、他の神さまのようなものは必要ない、神さまとその御子・イエスさまだけでいい、ということです。
そしてまた、今日の聖書には、<唯一の神、父である神がおられ>、と書いてあります。<父である神>の「父」とは「お父さん」のことです。私たち誰にでも、人間のお父さんがおります。けれども、聖書は、その人間のお父さんのことではなく、私たちには<唯一の神、父である神>がいるのだ、と言っているのです。つまり、神さまが、私たちの「お父さん」なのだ、と。
本当は、神さまの独り子がイエスさまであって、他には神さまの子はいません。けれども、神さまを信じ、イエスさまを信じる私たちは、神さまを「私たちのお父さん」と呼んでいい、と言うのです。そうなら、おとなも子どもも、誰にとっても、居なくなることのないお父さんです。そして、実際、私たちはしょっちゅう神さまを、「私たちのお父さん」と呼んでいます。それは、「天にまします我らの父よ」って、呼びかけている時のことです。そうです、「主の祈り」を祈る時です。主の祈りは、イエスさまが、このように祈りなさい、そのように祈って良い、と言って教えて下さった祈りです。本当の神の独り子である、イエスさまが許して下さったのです。ですから、私たちは、憚ることなく、神さまを「父なる神」さま、って呼ぶことができます。畏れ多いことですが、嬉しいことであり、喜ばしいことです。私たちは、神さま・イエスさまに愛され、守られています。このことを忘れず、感謝して毎日歩んでいきましょう。

