「永遠の命に至る食べ物」
説教要旨(11月23日 朝礼拝)
詩編 第78編 23~25節
ヨハネによる福音書 第6章 22~40節
伊藤英志
わずかなパンと魚で満腹した奇跡を味わった群衆は、主イエスを探しに湖を渡り、向こう岸の町カファルナウムで主イエスと再会します。過越祭を前にして、民を苦難から救い出すモーセのような預言者の到来を願っていた群衆は、救い主の到来を告げるしるしであるとされていたマナの出来事が再び起こったと考えたからです。群衆は何としてでも主イエスを王にする望みを実現させようとします。
主イエスを見つけ出した人々は告げられます。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ(26節)」。群衆は有り余るパンで満腹にしてくれた主イエスを探していたのです。食べ物のことを心配しなくて済むことが、人々にとって最もわかりやすい救いの出来事でした。
主イエスは続けます。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ人の子があなたがたに与える食べ物である(27節)」。働きなさい、働き続けなさいと主イエスは告げています。人々の望むように主イエスが王になれば、人々はもはや食べ物のために働かなくても済むわけではないのです。主イエスと出会い、主イエスを信じる人々には、なすべき業があるのです。
「朽ちる食べ物」とは、消滅してしまう食べ物、救いをもたらすことなく破滅に至らせる食べ物と理解することができます。人間の肉の空腹を満たすためだけの食べ物を求めていけば、人々は争い合って滅びに向かってしまうことさえ起こります。
主イエスがお与えになる「永遠の命に至る食べ物」が何を意味しているかがわからない人々は尋ねます。「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」。どのような善行を積み上げれば、神の業を自分たちで行うことができるかと尋ねています。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と主イエスが告げます。人々がなし続けるべき業とは、主イエスを信じることなのです。
まだよく分からない人々が尋ね続けます。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか」。どのようにして永遠の命に至る食べ物が与えられるのかが示されれば、主イエスを信じることができる、モーセが民の上にマナを降らせた奇跡の業をもっと見みれば主イエスを信じる、と主張します。
そこで「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである(33節)」と主イエスが告げると、人々は要求します。「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」。そのパンとは、天から降ってきた主イエスご自身のことです(35節)。そのパンはすでに天から遣わされていて人々の前にあるのに、人々は信じようとはしません。
「わたしが天から降ってきたのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである(38節)」。主イエスが地上に降ってきたのは、人々がどうにかして克服しようとしている「飢え」に対して、神がお与えになった答えです。主イエスを十字架にかけた人々は、ただ飢えていたのです。神の救いに飢え苦しみ、飢え狂っていたのです。
地上を生きる人間は、神への飢えに今も苦しんでいます。そこには平和や安らぎはなく、不安や怒りが積み重なっていくだけです。飢えた霊を満たす食べ物は、人間の手や知識によって決して作り出すことができないものです。そうした朽ちてしまう地上の食べ物を豊かに手に入れるために、私たちもこの世で誇れる豊かな実績を積み重ねようとしてしますが、そこに主イエスの姿はありません。
神の救いの御業を忘れてしまう私たちの霊にも、主イエスが再び出会おうとしてくださっています。主イエスの御言葉と主イエスの身体であるパンによって養われていく私たちは、永遠の命が始まる復活の時に備えて、主イエスの御許に集められているのです。

