「神に背負われて行く道」
説教要旨(11月30日 朝礼拝)
申命記 第1章 19~33節 / ヨハネによる福音書 第14章 1~4節
橋本いずみ
イスラエルの民は、神に導かれて、荒れ野の中を宿営の地から宿営の地へと仮住まいに身を置きカデシュ・バルネアの山地までやってきました。彼らの目の前にかつて広がっていた恐ろしい荒れ野は、後ろに過ぎ去り、今や豊かな実りを実らす土地が見えてきています。神は「見よ」(21節)、そして恐れずにあなたのために与えられる恵みの土地を受け取り、神の賜物をいただきなさいと言うのです。
神が与えてくださる土地は素晴らしい土地であるのと同時に民が越えてきた広大な荒れ野とは違う恐れを抱かせるものでした。
民は恐れを取り除くために、これから行く道を自らで切り開こうと偵察隊を派遣します。偵察隊は、「主が与えてくださる土地は良い土地です」という喜ばしい知らせを伝えましたが、この報告を聞いてもなお、民は神の与える土地へと進むことを恐れて、導いて来られた神への不平を口にしたのです。
民の前には、確かに神に不平を言うきっかけとなる現実がありました。彼らがこれから向かう土地に住んでいる者たちは、自分たちよりもはるかに強く、大きな町を造り上げることのできる力を持っていたのです。
彼らは出エジプトの最初から現在に至るまで、「もうだめだ」と思う状況の中から「恐れるな」と語りかける神に導かれて歩んできました。モーセは、恐れのあまり不平を言う民に向って、もう一度「恐れるな」と語りかけます(29-31節)。これまでの道のりにおいて、無力な子どもが父に背負われて父がなすことを見ているように、民は神のなすことを見てきました。にもかかわらず、神の言葉を信じられない人の姿がここに現わされています。
合わせて読んだヨハネによる福音書において、主イエスの行く道が分からずに困惑する弟子たちに向かって、主イエスは「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」(1節)と仰います。そして、守り導きたいと思う者のために主イエスが離れて父のもとに行かれることをお教えくださいました。
主イエスは、わたしたち(人)が、神さまとお会いすることができるようにために、十字架の道を進まれました。十字架の道は、復活に、神の国に、父なる神に通じる道です。わたしたちは神とお会いできるときを楽しみに待っています。
本日は待降節の始まりの主の日です。今年も、主を待ち望む季節を迎えました。わたしたちを父なる神のもとに導くために主イエスが地上に来てくださったことを思い、主イエスが再び来てくださる時に神とお会いできることを特に覚えて過ごす季節の始まりです。
イスラエルの民は神の約束された恵みの土地を目指して、その道を進んできました。主イエスは、この世にお生まれになったその時から、人の救いのために十字架の出来事を目指してその道を進まれました。わたしたちは、主イエスが切り開いてくださった道を進む者です。主イエスの道を主イエスの後に従って、天の国に至る道を目指して、その道を進んできています。
わたしたちが進んでいくようにと示されているところは、わたしたちの力では、到底かなわない強敵が存在するところです。しかし、神はわたしたちが進む道で、その場所で御業をなしてくださいます。神が御業をなされるとき、強敵の住む場所は、豊かな実りのある恵みの土地になります。
イスラエルの民が、エジプトを出発して宿営の地から次の宿営の地に移動していったように、わたしたちも、洗礼を受けたときから始めて、主の日から主の日へと進んできています。主の日は、神の国を目指して進んでいくわたしたちの宿営の地です。わたしたちの日々の歩みを、天の国を待ち望みながら、主の日から主の日に向かう道を進んでいきましょう。
教会が向かって行く道で、それぞれの行く道で、主の奇跡をなしてくださいます。

