「罪が掟を利用し」
説教要旨(12月7日 朝礼拝)
創世記 第3章 1~6節 / ローマの信徒への手紙 第7章7~12節
倉橋康夫
本日のロマ書 第7章7節以下で、パウロは繰り返して、<わたし>と単数形で語ります。これはパウロ個人のことを指す、と考えるのが自然かも知れませんが、しかし、ここで語られていることは、単にパウロの個人的な体験のことだけとは言えないでしょう。例えば、パウロはかつて、律法との関わりの中で生きていました。律法の禁じる罪を犯さないで、自信に満ちて歩んでいたのです。<律法の義については非のうちどころのない者でした。>(フィリピ3 : 6b)、と自分で言っおります。ところが、ロマ書のここでは、<わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました>(9節)、と言うのです。このようなことから、この<わたし>とは、誰のことなのか、ということになります。ある注解者は、「パウロを含む『わたし』という人間、主体的人間」を意味する、と言います。つまり、パウロ自身の深い信仰体験に基づいて、人間の問題として語っている、と考えて良いと思います。
そこで、パウロは、律法によって知らされた罪について、<むさぼり>を挙げます。<「むさぼるな」>とは、十戒の最後の戒めです。この戒めを示されて、自分の内面において起こったことについて、<ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしのうちに起こしました。>、と言います。罪が律法を利用する、掟を利用する、と言うのです。律法が、「むさぼるな」という掟を示すと、貪りは悪いことだ、と分かるけれども、貪りをやめようとするかというと、そうではなく、貪りたいとの欲望が涌き上がってくるのです。
ここでパウロの言いたいことは、それは罪が掟を利用していることなのだ、ということです。<罪は掟によって機会を得>、と言います。<機会>とは、「出発点」、「口実」という意味です。
格好の例が、創世記にあります。併せて読んだ、第3章のアダムとエバの堕罪物語です。主なる神は、エデンの園の善悪の知識の木からだけは、取って食べるな、と命じられます。ところが、この神の命令・掟をヘビが巧妙に口実にし、エバをそそのかし、エバはアダムを誘い、遂に二人共、禁じられた木の実を食べてしまいます。善悪を定めるという神の領域に踏み込もうとする、言わば、神のようになるという貪りの欲望に負けたのです。貪りの罪が、口実をつけて、遂に神への不従順に至らせることが、このエバとアダムの物語が良く示しています。正に、罪が掟を利用する真相が、ここに明らかにされている、と言えるでしょう。
私たち人間の貪りは、様々な形をとって現れ出ます。自分の欲しいものを、どうにかして手に入れようとします。このような「貪りの心」に生きる時、私たちは死へと導かれて行きます。<そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。>(9節b)、と言うのです。これが、罪が掟を利用して私たちに働きかける時の私たち人間の姿なのです。ここから抜け出る道は、人間の側からは開くことができません。人間のどのような修行も、努力によっても。
そのような人間の醜悪な罪と死の現実から、抜け出る道を開いて下さったのは、主イエス・キリストです。律法を成就し完成する方である主イエス・キリストの出来事によって、命への道に私たちは入れられました。主キリストの十字架の死と復活の出来事は、私たちの心を神へと向き変えさせます。この世のことしか考えない貪りの心を弱め、或いは消し去り、神に向かって心を高く上げてくれるのです。「罪が掟を利用し」、私たちに働きかける時、この世の欲望に心を奪われそうになるけれども、主キリストの出来事は、私たちに本来の人間の姿、神に造られた者として、神との交わりに生きる姿を取り戻してくれます。神の独り子のご降誕に思いを集める季節です。共に、主の救いのみ業を深く心に留め、信仰の備えをして参りましょう。

