「天から降ってきたパン」
説教要旨(12月 14日 朝礼拝)
創世記 第3章17~19節
ヨハネによる福音書 第6章41~59節
伊藤 英志
「わたしは天から降ってきたパンである」。わずかなパンと魚によって山の上で満腹になった人々に主イエスが告げています。しかし、人々はその意味を分かりかねています。人々が主イエスに期待して求めていたのは、いくら食べても尽きることのないパンであり、そのようなパンを与えてくれる王となってくれることだったからです。
人々は主イエスを信じようとはせず、「どうして今『わたしは天から降ってきた』などと言うのか」と、ただつぶやきあっているだけです。そこには主イエスのもとに来ようとしない人々の姿があります。神の言葉を聞くことによって神から学ぼうとしない人々の姿です。「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすわたしの肉のことである(50節)」、この主イエスの御言葉を正しく受け止めることが、人々が学ぶべきことであり、信じるべきことでした。
そのことを信じることができない人々は、ささやきあうばかりでなく、互いに激しく議論し始めます(52節)。自分の考えや論理がいかに正しいかを、お互いに激しく示し合って争い合っていきます。「人の子の肉を食べ、その血を飲む」ことは、とうてい受け入れることができない教えだったからです。そこには命なき人間の姿が示されています。
主イエスの教えは、続く63節にあるように、命を与える「霊」のことです。霊の言葉によって、天の父が引き寄せて下さらない限り、神がお語りになる言葉は人間には理解できません。神の霊によらなければ、人間は神によって教えられることはできません。永遠の命について、人間は神の霊によってのみ学ぶことができます。人間どうしがいくら激しい議論を重ねても、学ぶべき言葉が示されることはないのです。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる(56節)」、これこそ神の霊によって学び、信じることができる神の御言葉です。それは、教会と教会に連なる人間の姿を指し示しています。
信仰をもって教会に連なりながら神の御言葉を学ぶ者は、主イエスを食べるのです。主イエスに起こった十字架の死と復活の出来事を、永遠の命に至る御言葉として食べて、飲んで、深く味わうのです。そのようにして、永遠の命に向って養われていくのです。
なぜ、私たちは主イエスを食べることによって永遠の命を得るのでしょうか。それは、神の御前での人間の罪ある姿が、神が食べていけないと命じておいた木の果実を食べてしまったことから始まったからです。取って食べてはならない果実を食べて、まるで神になったかのような善悪を知る者となってしまった人間は、罪の歴史を歩むことになります。 しかし、十字架と復活の主イエスを信じ、主イエスの出来事を食べることによって、人間は永遠の救いに向かう歴史を歩み始めます。
主イエスのご降誕についての証言によれば、お生まれになった主イエスは飼い葉桶の中に寝ていたと証言されています。飼い葉桶とは、羊などの家畜が食べる牧草を入れる桶です。つまり、神の子イエスは、ご降誕の時から地上で食べられるために天から遣わされたということを意味しています。
私たちは、自分の救いについて人間どうしで激しい議論をすることしかできない、神の御前にあっては弱い存在であり、罪ある存在です。しかし、神の霊によって神に引き寄せられ、神によって教えられ、私たちは神を信じる者となり、罪を洗い流して頂きました。その口は、地上にあって飢えた霊が食べるべきものと、渇いた霊が飲むべきものとを、深く味わう恵みによって養われているのです。
神の霊によって、私たちは主イエスの御言葉を食べるのです。終わりの日に復活して永遠の命を得る、その時に向って、「天から降ってきたパン」を食べ続けていくのです。

