「命を与える霊」
説教要旨(1月 11日 朝礼拝)
民数記 第11章 1~6節
ヨハネによる福音書 第6章 60~71節
伊藤英志
「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」多くの弟子たちは、主イエスの教えにつまずいてしまいます。人の子の肉を食べてその血を飲むことは、不気味で猟奇的な話にしか聞こえません。そうなった理由は、主イエスの教えを、肉によって理解してきたからです。まるで自分が満腹できるまでパンを食べるかのように教えを受け取ってきたからです。
肉によって主イエスに従うとは、自分だけの利益のために事柄を判断し、自分を偽り、自分を善人に見せようとしながら主イエスに従うことです。天の父の許し(65節)によって主イエスに引き寄せられたのではない人々は、肉の思いによって主イエスを利用しようとするだけの「信じない者たち(64節)」なのです。そこに命はありません。
多くの弟子たちが主イエスから離れ去っていく中で、十二人の弟子たちは、主イエスに従っていく決意の固さを告白します。しかし、彼らも自らの肉の思いに従っていき、主イエスの十字架から離れ去っていくのです。
しかし、父なる神は肉の思いによって生きていこうとする人々をあえてお選びになります。そして主イエスのもとに引き寄せ続けようとします。それが神の選びの業であり、命を与える霊の業であるからです。
選ばれた人々が主イエスに引き寄せられていく目的は、主イエスの十字架での死の目的を悟らせるためです。それは理論や理屈によるというより、神の霊の力によってでしか理解し得ないことです。
神の御前で死罪に相当する罪が赦されて、自分が負うべき懲罰が免除されるために、主イエスが十字架におかかりになった。それがまったき救いの出来事であることを信じることは、肉の思いによってたどり着くことはできません。十字架で裂かれた主イエスの体であるパンと流された血を飲むことが、復活の日に与えられる永遠の命に向って人々の信仰と霊を養う、それも肉の思いによって信じるに至ることはできません。この神の救いの業を信じるようになるための神の選びの業は、肉によっては認識され得ないのです。
人々が主イエスのもとに集められる目的は、その選ばれた者が水と霊とによって新しく生まれた者となって、神の国に入るためです。選ばれて神の国に入る者たちとは、この地上では神を礼拝する者たちとなります。「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する(4:23)」者たちとなる、そして命ある者、生きる者となる。それは、神の選びの業、神の霊の力によって実現します。
しかし、神の霊の働きによって生きる私たちであっても、なお肉の思いによる力が私たちを追いかけてきます。なぜなら、肉の思いに引き寄せられていく姿に、私たちも安心と平安を見出そうとしてしまうからです。神の御業に不満を述べ、不平を言い、肉の思いによって互いにささやき合ってしまうのです。その姿は、天から降ってくる神の恵み(マナを食べること)に飽きてしまったイスラエルの民の姿と重なります。「どこを見回しても何もない」と訴えて自分の肉を満たそうとします。
自分の肉を満足させてくれない主イエスに従ってももう何もない―「実にひどい話だ」となり、主イエスから離れ去り、肉による判断に向かって行く。そこに命を与える神の霊はありません。神の国に入るためには何の役にも立たない肉があるだけです。
主イエスを裏切った弟子のユダとは、「賛美する」という意味の名です。ユダは神の子を賛美しているようで、実は自分の肉の姿をひそかに賛美していたことになります。その姿は、私たちの身近にあり、また私たちの内にも見え隠れしているものなのです。
神は、そのような私たちであっても主イエスのもとに今も引き寄せてくださいます。霊を満たす永遠の命に至るパンを食べることを許して下さっているのです。命を与えてくださる霊を受けつつ、終わりの日の復活をめざして、私たちは神を賛美し続けるのです。

