「撃ち破られてはならない」
説教要旨(1月 18日 朝礼拝)
申命記 第1章34~46節
マルコによる福音書 第10章13~16節
橋本いずみ
イスラエルは、「神が戦う」「神の戦い」という意味を持った名前の民族です。主なる神はイスラエルとともにいて、戦ってくださり、その道を導かれてきました。けれどもここで、神は、「わたしはあなたがたのうちにいない」と言うのです。「わたしがあなたがたのうちにないとき、撃ち破られるに違いない。だから、攻め上ってはならない。戦ってはならない。撃ち破られてはならない。」と仰ります。
イスラエルの民は神が戦われる様子を見てきたにもかかわらず、その戦いの先に、約束の土地が与えられることを信じきれずに不平を漏らします。きっと敵に破れて、約束の地に辿り着くまでに、滅びてしまうだろうと考えて、主の導かれる道に従おうとしませんでした。
そこで、神はイスラエルの民の声を聞いて、憤慨して仰ります。「あなたがたは、約束の地を見ることはない。」主なる神が憤って、「攻めのぼってはならない。戦ってはならない。」と言われた言葉にもイスラエルの民は従わない。「神が上って行け」と言ったときには、行こうとしなかったのに、「攻め上るな」という時には、攻め上って戦うというのです。そして、「わたしたちは、罪を犯しました」と言いながら神の言葉に背き、傲慢に進んでいき、その結果、神の民は撃ち破れてしまいます。
神は憤られても語りかけ、イスラエルの中から退かれても、打ち破れ民を見ておられます。イスラエルの民は「戻ってきて、主の前で、泣いた」(45節)と言います。やっとイスラエルの民は、主の前に戻ってくるのです。主の声に聞き従わず進んでいった者は敵に撃ち破られて、今、神の前にいるのです。
合わせて呼んだマルコによる福音書で主から遠ざけようとする者に対して主イエスは憤られ、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」、続いて「子供のように神の国を受け入れるものでなければ、決してそこに入ることはできない」と言われました。神の国に入ることができるもの、約束の地に入ることができるものは「子供のようなものである」と言います。
子どもとは、無力で、判断力がなく、危険にさらされているもの、一人の人として認められていないもの、自分ではなく誰かによって主イエスの前にたたされているものです。そのような者を、主イエスは抱き上げて、手を置き祝福なさいました。傲慢にも戦いに挑んだイスラエルは、追いやられて、まるで子どものように主の前で涙を流しました。
主イエスはそのようなものに手を置き祝福されます。その手によって、病人を癒し、目の見えない者を見えるようにし、足の不自由なものを立たせました。主イエスの手は、人を癒す力を持っている。そして、子どもに手を置いて神の国に入る祝福をお与えになりました。
人の手は、神への不平と傲慢、御言葉への背きによって、主イエスを十字架へと引き渡しました。わたしたちの手は、主イエスを十字架に引き渡した手なのです。その人の手を、神は、主イエスによって、神の働かれる手としてくださいます(マルコ16.18)。
わたしたちは、傲慢さと神の御言葉への背きによって、撃ち破られ、主の前に涙しかないこと味わってきました。しかし、もはや、神はわたしたちから離れられることはありません。主イエスが呼び寄せてくださり、その手でわたしたちに触れてくださったからです。洗礼を受けたとき、確かに主の御手が置かれました。
わたしたちの回りにも、神なき戦いに出て行って、撃ち破られているものがいるにちがいありません。わたしたちは、今から神の祝福を受けて、神が共におられる道を進んでいきます。主がわたしたちの中にいてくださる戦いを進んでいきたい。そして、神なき戦いに打ち破れて涙するものに、神の祝福を伝える手として用いていただきたく願います。主があなたの行かれるところで、あなたの手を主の手として用いてくださいます。

