「惨めさからの救い」
説教要旨(1月25日 朝礼拝)
創世記 第1章24~27節
ローマの信徒への手紙 第7章13~25節
倉橋康夫
前回、この同じ段落からのメッセージを聞きました。それは、「罪の正体」を明らかにするものでした。神の善意とも言うべき律法を通して、罪は人を死へと、滅びへと導くと。ところが、続いてパウロは、神の律法に背くのは自分の本心ではないのだ、と激しく訴えます。<わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。>(15節)、と。
ここには、パウロの深い自己洞察、人間洞察があります。よくよく心の奥底を覗いて見るならば、自分は切実に神を求めている、神のお望みになる通りに生きていきたい、と願っている、と言うのです。もしパウロが悪を望む自分しか見ていなかったとしたら、深刻に悩まないで済んだことでしょう。人間は本来悪を望むものであるから、放っておいたら悪いことばかりしてしまうのは当然のことだからです。しかしパウロは、<わたしは自分の望む善は行なわず、望まない悪を行っている。>(19節、他に18節、21節)、と言います。人間の心の深刻な分裂状態を、パウロはここで語っています。パウロ自身の問題であると同時に、人間の深刻な状況を指し示しているのです。
聖書が、人間をどのような存在として示しているかは、本日併せて読んだ、創世記 第1章の記述を参照するのが良いと思われます。人間は何よりも、神にかたどられ、神に似せて創造されたものだと言います。勿論、姿、形のことではなく、目に見えない部分、霊的な面においてです。この部分を、パウロは見つめているのでしょう。神を切実に求める自分、神のみ旨に沿う生き方をしたい、つまり、善をなそうと思う自分に気づいているのです。ところが、現実は、<望む善は行なわず、望まない悪を行っている>のです。
そこでパウロは、自分の分裂状態について、罪を問題にします。<そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。>(17節)(他に、18節a、20節)、と。勿論、パウロは、これを責任逃れで言っているのではありません。罪はあくまでも自分の責任には違いないのです。
ここでパウロは、二種類の法則があることを感じ取ります。「内なる人」としての法則、神の律法を喜び、善をなそうとする法則と、五体の法則、悪が付きまとい、悪を行ってしまう法則です。前者は<心の法則>であり、後者は<罪の法則>です。そして自分の現実は、<罪の法則のとりこ>になっているようなものだ、と言います。<わたしはなんと惨めな人間のでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。>(24節)、と叫びます。
しかしパウロは突如として、<わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。>(25節a)と言います。ここでパウロは、主イエス・キリストのもたらして下さった救いの恵みの大きさを思い起こしています。主キリストを通して、救いは既に与えられているからです。パウロは救いのみ業を成し遂げて下さった神への感謝を深く噛み締めています。そして、改めて、静かに(絶望的にではなく)、<わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えています。>、と言います。ここに、人間の偽らざる現実があるのです。
けれども最早、それは絶望的現実ではありません。肉においては弱く、罪の法則に仕えるように生きて、失敗を繰り返してしまう。しかし、それだけではない。「内なる人」として、神の律法を喜び、仕える自分があるのです。主キリストの十字架の死と復活の出来事は、この「内なる人」を日々に新たにしてくれます(Ⅱコリント 4 : 16)。主キリストの救いを深く信じているが故に、パウロは、人間としての弱さを告白しながら、しかし、救いの完成への確かな歩みに入れられている、と言い得ております。惨めな自分を深く知り、その上で確かな救いを確信しているのです。

