「主キリストに結ばれて」
説教要旨(2月1日 朝礼拝)
イザヤ書 第1章18~20節
ローマの信徒への手紙 第8章1~11節
倉橋康夫
本日から入る第8章の書き出しが、<従って、今やキリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。>です。主キリストの福音について、丁寧に、言葉を連ねて語ってきたが、結局のところ、このことに尽きる、と言うのです。罪に定められることはない、有罪判決、死刑宣告を受けるのではなく、義と認められ、命を与えられると言うのです。そして、この約束の下に生きる者が、「主キリストに結ばれて」歩む者のことだと言います。既に、第6章3節で、<キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた。>、「キリスト・イエスへと洗礼された(に浸された)」、と言われたように、主キリストに浸され、主の力の下に生きることであり、主キリストに守られて生きるのです。
それでは、何から守られる、と言うのでしょうか。単にこの世で元気に無事で過ごせることではありません。それが究極のことではないのです。私たちの最終の願いは、病気や災難に遭っても、そして肉体の死がやって来ようとも、主キリストの守りの中に置かれる、ということです。この場合の「主キリストの守り」とは、この世を越えるものです。ハイデルベルク信仰問答が冒頭で謳い上げているように、我々の唯一の慰めは、「生きる時も、死ぬ時も、我々が主キリストのものとされていること」なのです。自分は誰のものでもない、自分自身のものでもない、主キリストのもの、神のものとされている、ここにキリスト者の慰めと平安があります。
そして、このことが可能となったのは、そして実現したのは、主キリストの十字架と復活の故です。従って、「主キリストに結ばれて」生きる、主キリストに守られる、ということは、主キリストの十字架と復活の恵みの下に生きることに他なりません。更に、具体的には、キリストの体なる教会に生きることである、と言えます。主キリストの守りの中に生きるとは、抽象的観念の世界のことではなく、具体的、実際的な生活のことです。そしてそれは、教会生活のことであり、礼拝の生活のことなのです。
ところで、宗教改革者J. カルヴァンは、第8章1節を、「・・・すなわち肉によって歩まず、霊によって歩むものは、決して罪に定められることがない。」、と異本とされる部分を入れて訳しました。ここに、「主キリストに結ばれて」生きる者の実相があるということでしょう。キリスト者は、霊によって歩む、すなわち聖霊の支えと導きの下にある、ということです。来し方を振り返れば、神に背き、自分を誇るような愚かさを乗り越え、よくぞここまで来た、と思わされる。しかしそれは、自分の力で乗り越えたのではなかった、聖霊によることだった、とつくづく思わされる。信仰者となって初めて知らされる真相です。そして更に、信仰者となっている今こそ一層、聖霊が支え導いて下さらなければ、「主キリストに結ばれて」生きることはできないことを痛感させられるのです。2節<キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死の法則からあなたを解放したからです。>、と言われる通りです。
併せて読んだイザヤ書に、主なる神のお言葉が記されています。これは、主なる神の招きの言葉です。問答無用と言っていい筈のところを、主なる神は<論じ合おう>、「語り合おう」と招かれます。勿論、議論によって決着をつけようというのではありません。会話への招き、それは神の方から近寄って下さるという、限りない譲歩です。私たち人間の罪を問わず、赦しを与えようと申し出ておられる、と言って良いでしょう。私たちは、この神の譲歩、つまり主キリストによる救いを受けて、主キリストの守りの中で生かされているのです。私たちは、頑なに背く道ではなく、進んで神に従う、主キリストに従う道に入れられたのです。今週もまた、「主キリストに結ばれて」生かされている者として、慰めと安らぎを受けて、この恵みを証しする者としての歩みを進めて参りましょう。

