「備えられている時」
説教要旨( 2月 8日 朝礼拝)
イザヤ書 第40章1~5節
ヨハネによる福音書 第7章1~13節
伊藤 英志
「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている」。自分自身について明らかに示すように迫った兄弟たちに主イエスが告げています。
仮庵祭が近づいていました。仮庵祭は、イスラエルの祖先がエジプトでの苦役から解放され、40年間にわたって天幕生活による旅を続けたことを覚える祭りです。人々はしつらえた質素な小屋の中で過ごし、地上での仮の宿に生きる命を実感しながら、やがて神の国において神と共に住む日を思い巡らします。 そして、多くの人々がエルサレムの神殿に巡礼に向かいます。最終日には神殿で多くの家畜をほふり、全ての民の罪が赦されることを祈る盛大な儀式が行われます。
しかし、その巡礼者の中に主イエスがいれば、捕えて殺そうとする手筈となっていました(5:18)。それを知った主イエスの兄弟たちは、主イエスが何者であり、何のために騒ぎを起こしているのかを、エルサレムがあるユダヤ地方ではっきりと示せと迫ったのです。兄弟たちも主イエスを信じることができずにいたのです(5節)。
「わたしの時」とは、ご自身が何者であるかをはっきりと示す時です。十字架で死なれ死者の中から復活する時を意味します。ここで主イエスは仮庵祭の神殿で屠られるように殺されはしないことを告げます。主イエスの時は、選ばれた人々が人間の罪による苦難から導き出されて、救いに向ってその旅路を歩み始める過越祭の時に実現することです。
しかし、神の律法に従って仮庵祭を過ごし、全ての民を救い出す神の御業を待ち望む、「あなたがたの時」は、いつも備えられている。救い主の到来に備えて何を備えるのかは、預言者たちによって既に示されてきました。
「主のために荒れ野に道を備え…広い道を通せ」と預言者イザヤは語りました。主イエスが神の子であると最初に公然と証しした洗礼者ヨハネもこれを繰り返し語りました。「主の道をまっすぐにせよ(1:23)」。
しかし、人々は神の御言葉によって主イエスを理解しようとせず、肉の思いに従っていて主イエスを受け入れることができません(1:11)。そうした人々の間に現れるのは、主イエスについて確信をもつことができないことから生じる混乱と対立であり、不可解と疑念です。「良い人だ」、「いや、群衆を惑わしている」と人々はささやき合います(12節)。
なぜなら、人々はこの世に好かれようとしたからであり、光よりも闇の方を好んでいたからです(3:19~)。そのような現実の中にあっても、救いの業を待ち望み、光に向かって歩み出す決意を新たにする「あなたがたの時」は、いつも備えられているのです。
主イエスは、「あなたがたの時」を妨げている勢力の中へ向かいます。主イエスを殺そうとしている人々が怖くて、主イエスについて公然と語ることができない人々に向って、エルサレムの神殿でご自身をお遣わしなった方を公然と語るために、ガリラヤからエルサレムへと向かいます。その旅はヨハネ福音書では二度とガリラヤへは戻らない、十字架へ向かう旅となります。
現代においても、この世が良しとする現実に自分自身を適合させて、この世に好かれようとして生きていこうとする人々が大勢います。そこでは、主イエスがどのようなお方であるかについて混乱があります。
そうした現実の中で、この私たちも主イエスを公然と語る勇気を求めない時があります。この世という荒れ野を旅し続けるために必要な信仰を求めずに、主イエスが歩まれる道をまっすぐに整えさせようとしない世の力に翻弄されている姿を認めざるをえません。
私たちに備えられている時とはそれぞれの弱さにあっても主イエスを公然と語り合おうとする時です。荒れ野を旅したイスラエルの民のように地上において仮の宿で暮らし、神の御業を公然と語り合って神の救いの時を確信し、神の国に向かって荒れ野を旅し続ける。それが、私たちに備えられている時なのです。

