「霊の思いは命と平和」
説教要旨( 2月22日 朝礼拝 )
詩編 第66編 1~9節
ローマの信徒への手紙 第 8章 1~11節
倉橋康夫
パウロは5節以下で、<肉に従って歩む者>と<霊に従って歩む者>について詳しく語ります。そこで先ず、<肉の思いは死>である、と言います。肉に属することを考えて営まれる人間の生活は、結構にぎやかで、活動的であり、活気に満ちている。けれどもパウロは、結局それは死を意味する、虚しいものでしかない、と言います。その理由は、そのような人間の営みは、神に敵対する歩み、神のみ旨に反するものだからである(7、8節)、と。そして、<神に喜ばれるはずがありません>(8節)と。けれども、それが神に敵対する営みであることに気づくことができないのです。神に向かって心が開かれていない時、私たち人間は神に敵対する歩みに気づくことができません。そして、神に向かって心が向いた時、如何に自分が救い難い人間であるか、罪人であり、死に取り付かれてしまっているか、を悟るのです。
それでは、どのようにして、<肉の支配下>から<霊の支配下>に移されるのでしょうか。パウロは、<神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。>(9節)、と言います。ここで、<神の霊>と<キリストの霊>とは、聖霊のことです。しかし、<キリストの霊>と言い換えたのには意味があります。つまり、主キリストの出来事を示唆している、ということです。私たち人間が、肉の支配下から霊の支配下に移される、その秘密がこの出来事にあるからです。
主キリストの十字架の出来事に出会い、人は頑なな心を砕かれ、悔い改めへと導かれ、主の復活を知らされ、救いを確信させられるのです。聖霊が私たちの内に働かれるのは、主キリストの出来事を通してなのです。このように、聖霊が宿っていて下さるあなたがたは、キリストに属する者、主キリストのものである、と言います。
そして、この主キリストの救いに入れられた者は、<体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています>と言います。この<体>とは、古き人を指し、罪によって無力にされた人のことである(6 : 6)、と説明されます。背後には主の十字架があり、洗礼は主と共に葬られることです。そして、“霊”に従って歩む者は、主キリストの与え給う義によって、罪赦され、命を受け、命の道を歩む者となっている、と言うのです。だから、<死ぬはずの体>も、死への道を辿るのではなく、命へと結びつけて下さる、と言うことができるのです(11節)。
このように見てくると、神の霊の下にある思いは、「命と平和」である(6節)との意味が明らかになります。「霊の思いは命と平和」とは、主キリストによる、神の救いのみ業に基づいているのです。正に「命と平和」は、主キリストの十字架と復活によってもたらされました。この命は、単なる肉における命ではありません。肉の体の生活を含みつつ、人間全体が神に結び付けられる永遠の命です。平和も単なる平穏無事ではありません。神からの罪の赦しを得て初めて実現する、神との和解と人々との宥和です。
「霊の思いは命と平和」。この場合の「霊」は、何よりも神の霊です。神ご自身が、私たち人間への「命と平和」を望まれました。それ故に、独り子をこの世にお送り下さったのです。そして又、この霊の思いは、救われた者、霊の宿る者とされたキリスト者の思いでもあります。「命と平和」に招き入れられた感謝と喜びの中に、またその「命と平和」を証しする者として、信仰の歩みを進めたいと思います。併せて読んだ,詩編 第66編の讃歌は、主キリストによる神のみ業による感謝と喜びに繋がるもの、と言えます(1~6節)。そして更に、神のとこしえの支配と救いの確信を高らかに歌います(7~9節)。主キリストによって与えられた「命と平和」の支配の内に信仰の歩みを進めて参りましょう。

