「真実な人」
説教要旨( 3月 8日 朝礼拝)
詩編 第19編 8~11節
ヨハネによる福音書 第7章14~24節
伊藤 英志
仮庵祭を迎えたエルサレムの神殿で、主イエスはご自身をお遣わしになったお方が語る言葉を告げています。エルサレムにいた人々は、第5章1節以下で証言されているように、安息日での癒しと自分を神と等しい者と語った主イエスを殺害しようとしていました。そうした人々に加えて、仮庵祭の巡礼で来ていた人々にも向かって、主イエスは、自分を弁護釈明する言葉ではなく、聖書の言葉をよどみなく教えます。
その姿に拒否と軽蔑をもって驚き怪しんだ人々は、人間の思いに従って「自分勝手に話す」者であり、神の栄光を求めていると言いながら「自分の栄光を求める」者でした。自分たちの判断や思いのほうが正しいし、権威がある・・・そう考えて主イエスを殺そうとしていた人々は、律法を正しく知っていて正しく守っているという自負がありました。
そうした思い高ぶりを主イエスは厳しく批判します。「モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか(19節)」。モーセの律法の中心である十戒には「殺してはならない」とあるのに、自分勝手な判断や裁きを下す姿が明らかにされます。
巡礼に訪れていて経緯を知らない人々が答えます。「あなたは悪霊にとりつかれている。だれがあなたを殺そうというのか」。安息日での癒しの出来事がその発端でした。しかし、主イエスは、「人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが全身を癒したからといって腹を立て」ている人々が群衆の中にいると告げます。「殺してはならない」と定めた律法に従うために、主イエスを殺そうとするのは、天にある御心を行う者の姿ではありません。
神の律法は、本来、正しい裁きと判断を人々の間に生み出すはずのものです。詩編にあるように、「主の律法は完全で、魂を生き返らせ、主の定めは、真実で、無知な人に知恵を与える」ものです。清い戒めである律法を守ることは、人の心に喜びを与えて、目に光を与えます。この主の御業のゆえに、人は主なる神を畏れる者となります。なぜなら、主の裁きは偽りなく、ことごとく正しいからです。
しかし、人間は主の律法と定めを守り、主を畏れる信仰に偽りなき清さを保ち続けることができません。信仰、信仰と言いつつ、自分が神になったかのようになって、うわべだけで人を裁き、正しい判断を下すことができない。そうした人間の本性が示されています。
この人間の姿に向って主イエスが告げます。「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は、真実な人であり、その人には不義がない」。真実な人とは、根本的には誠実な人であり、信頼に値する人を意味します。そうした人間の真実さは、神を畏れ敬うことから生じます。
神の民に与えられた律法とは、真の誠実や信頼、確固たる善意や誠意を、人間と神との間に、そして人間どうしの間に実現させるためにあります。神の律法は、人間の言動が矛盾や裏表のない誠実さ、分裂していない真実さを具体化させるためにあります。この律法の働きを完成させるため、神の独り子イエス・キリストがこの世に遣わされました。
私たちは誰しも真実な人を目指しています。真実な人々に囲まれたいと願い、誠実に満ちた人として見られたいと望んでいます。主イエスの弟子たちも、清い誠実さをもって主イエスに従っていく真実な人であり続けようとしました。しかし、主イエスから逃げ去って行ってしまう日が来るのです。
聖書が告げる真実な人とは、父なる神の言葉に聞き従うことによって生み出されます。自分勝手は判断によって引き起こされる混乱や分裂、争いや痛みから、神の言葉に聞き従うことによって解き放たれた人こそ真実な人です。神の栄光を求める者は、天にある永遠の栄光を求めて不義から離れ、神の御前にあって真の誠実と信頼に生きようとするのです。

