「苦しみと栄光」
説教要旨( 3月15日 朝礼拝)
エレミヤ書 第15章 10~11節
ローマの信徒への手紙 第8章18~25節
倉橋 康夫
前段の最後に、私たちが主キリストと共同の相続人にされているということは、即ち、主キリストと共に苦しみ、そして栄光をも共に受けるということだ、と言われていました。そして、本日の最初、18節で、この主キリストと共なる歩みは、<現在の苦しみ>をも齎す、と言います。この主キリストと共に苦しむ、<現在の苦しみ>と言う場合、この世の生活で人間誰もが避け得ない苦しみ一般を指しているのではありません。ここでは、主キリストのお苦しみに、私たちが与ること、結び付けられることを意味します。
<現在の苦しみ>とは「今の時の苦しみ」(直訳)であって、「今という時」の理解に関係します。パウロは、コロサイ書 第1章24節で、次のように述べています。<今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。>と。パウロは、苦しみを喜びとする、と言います。なぜならそれは、キリストの体なる教会のためであり、主キリストの苦しみの足りない部分を満たすことだからだ、と言うのです。パウロの願いはただ、<キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように>(Ⅰコリント1 : 17b)というところにありました。主の十字架が私たち人間の救いのために完全な神のみ業であったことは疑い得ません。とすれば、私たち人間の救いのために残っていることは、主の十字架が虚しいものにならないように、その救いを全ての人々に宣べ伝えること、そのための苦しみを引き受けることなのです。
扨て更に、<現在の苦しみ>とは、主キリストの十字架のお苦しみそのものに結びつく苦しみをも意味します。つまり、主の十字架のお苦しみは、人間の罪故のお苦しみであった、と言うことと関係するのです。ある聖書注解者は、「キリスト者として生活することには、私たちの目が自分を取り巻く罪に対して開かれているという理由だけで、特別な苦痛が伴うものである。」と言います。これは、主の十字架のお苦しみに与ることであり、それは自らの罪を深く知ることと、赦しを受けることに他なりません。主キリストの十字架こそ、私たち人間の罪の深さ、重さを指し示すものであり、同時に赦しを約束するものだからです。
また、「自分を取り巻く罪」とは、人類の罪とでも言うべきものをも指しています。世界の有り様を見る時、私たちは罪の渦巻く現実を見ないわけにはいきません。そのために、身に及ぶ苦しみがあり、危険があります。併せて読んだエレミヤ書 第15章には、預言者として立てられたエレミヤの嘆きが記録されています。嘆きの預言者と言われるエレミヤの苦しみは、預言者としての活動、神の許へと立ち返らせようとして警告を発すると、争い・いさかいの絶えぬ者と非難され、それでもなお、執り成しの祈りを続ける、という苦しみを受ける歩みでした。世の人々から理解されなくても、神への執り成しをし続けるのが、エレミヤの日々だったのです。私たちキリスト者も、このような世界を神に対して執り成す責任を担うものです。しかし、私たちの執り成しの祈りは、自らを罪無しとしてするのではなく、人類の罪に自分も加担する者として、悔い改めと赦しを請うものです。
このように、「自分を取り巻く罪」に目を開かれ、そのために与えられる苦しみは、キリスト者特有の苦しみです。けれども、この苦しみは、神のみ前にあってこその苦しみであるが故に、将来の祝福を約束するものです。パウロは、現在の苦しみは、将来の栄光に比べるならば、取るに足りない、と言います。それは、パウロの切なる願い・死者の中からの復活(フィリピ3 : 10、11)だからです。「苦しみと栄光」 それは、裏腹なことではありません。神のみ前にあって、信仰者として生きる時、私たちは様々な苦しみや悲哀を味わいます。けれども、将来の栄光は確かな約束としてあるのです。

