「さあ、立ち上がりなさい」
説教要旨( 3月22日 朝礼拝)
申命記 第2章 1~15節
ルカによる福音書 第5章27~32節
橋本 いずみ
奴隷の地エジプトを脱出してからの歩みの中で、イスラエルの民は一言では言い切れない様々なことを経験し、時に応じて起こる衝突や困難など複雑な事情の中を進んで来ました。それはイスラエルの民にとって長い期間であり苦しみの道のりであったに違いありません。しかしモーセはその40年を振り返って、それは恵みのときであり、神がそのお言葉を実現され続けたことを見せていただいた歩みであったと言うのです。
モアブの領土を通って、ゼレド川を渡るとき、前の世代の戦闘員たちは、一人もいなくなったと言います。神は、前の世代のものたちの不従順ゆえに「わたしが与えると誓った良い土地を見る者はいない」(1:35)と仰いました。
モーセがイスラエルの民に想い起こさせることは、神の恵みとその約束に信頼して神に忠実に仕えることです。15節には、「主の御手」、「混乱」「死に絶える」など、戦いに用いられる言葉が散りばめられています。ここで滅ぼされたのは、他国の人ではなく恐れを抱くイスラエルの戦闘員です。
前の世代の者たちがすべてがいなくなった時、イスラエルの民は出エジプトを体験し、前を進んでいくものがいなくなって、心細くなっていたでしょう。その民に神は、「さあ、立ち上がり、ゼレド川を渡りなさい」と仰います。
イスラエルの民の歩みは、キリストのものとされものたちの姿と重なります。神はこの教会にも、時に応じてエジプトから脱出させるたような神の恵みの出来事をおこしてくださり、多くの先達がこの教会を支えてきました。けれどもわたしたちは、年を重ねるごとに、前を行くものを失っていきます。
教会の群れの歩みであると同時に一人のキリスト者の歩みとして見、この御言葉を聞くならば、とても恵みに満ちていたことが言われていると思います。
わたしたちは、神によって偉大な救いの御業を体験させていただいて、洗礼を受けてキリスト者になりました。わたしたちの歩みを振り返るときに、必ずしも神に従順なものであったとは言えない。神に背いてばかりだと思わされます。そして、自己中心から離れて、神さまのお心に従う歩みができないものかと思います。
神はイスラエルの民に偉大な御業を起こし、そして、御手によって民の中から不従順を取り除き、約束の地へと導いてくださいました。
従順でありたいと願うものにとって、この出来事は、なんという恵みでしょうか。神の御手が触れられて、不従順をすっかり取り除いていただけるというのです。
神は、おっしゃいます。「今、立ち上がって、川を渡っていきなさい」と。わたしたちは、主イエスによって、すっかり新しくされた群れです。神から離れようとするものを取り除かれた群れなのです。
新約聖書に立ち上がったものがいたことが記されています。それは、徴税人レビです。レビは主イエスにお声をかけていただいて立ち上がりました。罪の苦しみも罪に安住しようとする心も古い生き方のすべてを捨てて、主に従いました。そして、主の食卓に仕えるものとなったのです。主に会っていただこうと、場所を作り、人を集めたのです。
「医者を必要とするのは、健康な人ではなく、病気の人である」と主は言われます。病を持っているとき、医者に診てもらい必要な処置をしてもらいます。わたしたちは罪を負いながら、取り除いていただきたいと願ってここにやってきました。主は、わたしたちを悔い改めに導いて、罪を取り除いてくださいます。主は、わたしたちに目を留め、神の方に向き直らせてくださいました。主は言われます「さあ、立ち上がりなさい」神の命令は、わたしたちを生かす言葉。命を与え、素晴らしい御業に仕えるものに造りかえてくださるお言葉です。

