「不信心な者を義とする方」
説教要旨( 4月 6日 朝礼拝 )
詩編 第32編 1~ 5節/ローマの信徒への手紙 第 4章 1~8節
倉橋康夫
ロマ書 第4章では、アブラハムの信仰について繰り返し語られます。本日は、4節以下の部分に注目します。ここに、<働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものとみなされています>、とあります。この<当然支払われるべきもの>という字は、「負い目」、「負債」とも訳されます。働く者に対して報酬を支払うのは、負い目であり、そうしなければならないことであり、恵みを与えるということではない、と言うのです。極めて当たり前のことです。
ところで、パウロがいつも願っていたことは、「福音」を広く宣べ伝えることでした。しかも、その福音は神が恵みとしてお与え下さるものであることを納得してもらうために、言葉を尽くして努力するのです。ここで、雇い主が負い目として持つ、当然支払うべき報酬の話を持ち出しているのも、その努力の一端です。私たち人間が、神の恵みをただ恵みとして受け取ることができず、そこに何らかの自分の功績を潜り込ませようとしたがることを、パウロは良く知っているのです。神の恵みを受け取るに足る働きや資格が自分にはある、と考える驕り・高ぶりに陥ってしまうのです。しかし事態はその逆であって、人間が神に対して負い目を負う存在です。
そこでパウロは、神について、<不信心な者を義とされる方>である、と言います。つまり、ここには人間は全て不信心な者であると言わなければならない、との含みがあります。この<不信心な者>の部分を、宗教改革者のM. ルターは「神を失っている者」と訳しました。神無き者、神のいない所で生きている者、ということです。それは、ただ自分の力に頼っているというだけでなく、神を無視し、神を神としない生活をすることです。アブラハムが、正にそのような過ちに迷い込んだことがありました。あなたの子孫は星の数ほどに多くなる、との約束を受けておりながら、それを信じ切ることができなかったのです。そこで、その約束の実現を、女奴隷の子を産ませることによって図り、神から諭されたことがあったのです。
パウロがここで具体的に名を挙げているのは、ダビデ王の場合です。引用されている聖書の個所は、併せて読んだ詩編 第32編1b、2節です。<いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。/いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。>、とあります。パウロの引用で<不法>とあるのは、律法に適わないことであり、神に背くことを意味し、これも罪に通じることでしょう。つまり、罪は赦され、覆い隠されなければならないようなものだ、ということです。私たち人間の罪は、もぎ取って捨てて、無くしてしまうことのできるようなものではない、ということです。私たち人間に染み付いてしまっているのです。ですから、赦して頂くしかない、覆い隠して頂くしかない、と言うのです。
ダビデは、自分の欲望のため部下を殺してしまいました。預言者ナタンに諌められ、悔い改めたダビデは、神からの赦しを与えられます。その幸いを歌っているのです。私たち全ての人間は、神の眼差しの中に生きております。私たち人間の罪を鋭く見抜かれる方の前で、裸にされて生きているのです。けれどもその鋭い眼差しをお持ちの方が、敢えて私たちの罪に覆いをかけて下さる、と言います。正に、不信心な姿丸出しのような私たちを、忍耐強く支え、守り、導いて下さるのです。
「不信心な者を義とする方」としての神のお姿が、主キリストの十字架において最高の形で啓示された、と言えるでしょう。そこに、私たちは、「不信心な者を義とする方」の救いのみ業を見せられております。なお、不信心のそしりをまぬがれ得ない私たちです。けれども、神の憐れみの眼差しの中で、み言葉によって正され、整えられ、神のみ赦しを確信させられて生きていけることは幸いです。共に聖餐に与り、神の恵みを新たに受けて、信仰の歩みを進めたいと思います。

