「わたしは知っている」
説教要旨( 4月 19日 朝礼拝)
ホセア書 第13章 4~6節
ヨハネによる福音書 第7章 25~36節
伊藤英志
仮庵祭を迎えて多くの巡礼者たちが集まっているエルサレムの神殿で、主イエスはご自身をお遣わしになったお方―天の父なる神について大声で叫んでいます。しかし、人々は、ナザレのイエスが救い主メシアであることの確証を求め始めると同時に、強い疑いを抱きます。救い主がナザレから出るとは預言されていないし、無名の家の子であるはずがないと思われたからです。
メシアかメシアでないか、そうした迷いの中にあった人々に向って主イエスが叫びます。28節「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない」。仮庵祭の最中であるのに、エルサレムにいた人々は、主イエスをお遣わしになった父なる神の御業を知ろうとしなかったのです。
仮庵祭は、エジプトでの苦役からイスラエルの祖先が解放され、神の恵みに支えられて荒れ野での苦難に満ちた天幕生活の旅を続けたことを覚える祭りです。祭の間、人々は神の救いを確信する、偽りや欠けのない完全な「真実なる信仰」に心を向けます。
しかし、主イエスを前にしたエルサレムの人々は、ナザレのイエスがどこから来て、どこに行こうとしているのかについて論じ合い、混乱しています。その原因は、真実なる信仰を語っているその自分の姿の大いなるを確信して、神の恵みを忘れ、神を顧みることなく、神を知らない人々となっていたからです。ですから人々は、自分がもっている知識や経験、人々が納得する基準によってナザレのイエスを知ろうとします。
人々は四つのグループに分かれていきます。一つは、ナザレのイエスがもつ真実について確かな証拠が得られず、最高法院の判断といった人間の権威や知識に合致した判断を求める人々です。二つは、ナザレのイエスを殺害することを決めておきながら実行に移すことができず、自分の決意と行動が矛盾していて躊躇と迷いの中にいた人々です。三つは、31節の証言にもあるように、数々の奇跡の業を自分の目で見た―その自分の経験のゆえに主イエスを信じた多くの人々です。四つは、32節以下にあるように、仮庵祭を迎えて最も関心と注目を集めるはずの祭司長やファリサイ派の人々で、下役を遣わして主イエスを人々の前で捕えようとし、自分たちの権威を神殿に集まっていた人々に示そうとする人々です。
どのグループにも共通しているのは、権威をもつ人間の判断が正しい、それに従う自分の行動に誤りはない、自分の経験や判断基準に基づく行動が正しい。つまり全てについて、人間を、自分を、頼りにしている姿です。同時に迷いと躊躇と混乱の中にいる姿です。そこに真実なる姿はありません。自分がどこから来て、どこへ行こうとしているのかを見失っています。私は神を知っていると言いながら、実は神の業を認めようとしてはいません。
ホセア書にも記されているように、そのように神を忘れた人々は、主イエスをいくら捜しても見つけることができない時が来ます。主イエスがいる所にそのような人々は来ることはないのです(34節)。
主イエスが地上に遣わされた目的は、人々が主イエスを信じない者ではなく信じる者となり、主イエスが帰っていく場所―神の国に、人々が来ることができるようにするためです。だからこそ主イエスは、地上での神の都、エルサレムの神殿の境内で叫んでいるのです。
主イエスの叫びは、自分の命がどこから来たのか目を覚ませ、主なる神に立ち返れと私たちを戒めています。自分が帰っていくべき、神と共に住む霊の故郷に目を向けよと、今も主イエスは大声で呼びかけています。
大声で叫ぶ主イエスの御言葉に、これからを生きる私たちの命があるのです。私たちが進んで行くべき道があり、私たちがたどりつく真実に満ちた永遠なる神の国があるのです。

