「万事が益となる」
説教要旨(4月26日 朝礼拝)
創世記 第22章 15~18節
ローマの信徒への手紙 第8章 26~30節
倉橋康夫
本日は、ロマ書の28節を中心にして、メッセージを聞きます。原文では冒頭に、<わたしたちは知っています>、とあります。この「知っている」という字は、22節にもありますが、公に、高らかに宣言するかのように言うことであり、信仰者の公同的知識・信仰者全体の共通の知識を表明するのです。自分の救いと望みについて、次のことは確かなことだ、と言います。<28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを>、私たちは知っている、と。文語訳聖書では、<凡てのこと相働きて益となるを我らは知る。>でした。全てのことが、互いに作用し合って、万事良い結果となる、というのです。しかし、それはこのみ言葉が指し示す一つのケースと言うことはできても、このみ言葉の核心・中心ではありません。
口語訳聖書では、<28 神は、愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に、万事を益となさるようにして下さることを、わたしたちは知っている。>でした。つまり、「益となる」とは、確かに自分にとって益となることですが、自分の願い通りになることではなく、神のみ旨に沿って益となることなのです。<凡てのこと相働きて益となる>ということの中心に、「神のみ旨」を置かなければ、このみ言葉の真意を外すことになってしまいます。<益>という字は、「善」が原意です。善とは、神のみ旨に適うことを意味します。神のみ旨に従って、自分にとって「善」となる、「益」となる結果がもたらされる、ということです。神のみ旨・ご計画が存在するのです。結局は、神のご計画が揺るぎなく推し進められる、というこの1点に尽きる事柄です。
Ⅰコリント第8章で、<3 しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。>、とパウロは言っています。神が私たちを知って下さることが先行してあり、それで私たちが神を愛する道へと導かれます。神が私たちを知るとは、味方となって下さること、愛し、憐れんで下さることを意味します。愛するとは、本来自分を犠牲にすること、自分を与え尽くすことを意味します。ヨハネ福音書 第3章16節に、<神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。>、とあります。ここに、本来の愛の姿が示されている、と言えるでしょう。ところが、私たち人間が神を愛する道は、神を信頼し、自分自身を神に明け渡し、委ね切ること、信仰以外ではあり得ないと言うべきです。
併せて読んだ創世記 第22章の記事は、イサクの奉献の試みを受けた後に、改めてアブラハムに主なる神が確認された祝福の約束です。そこで、主の御使いから告げられたことに、<あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかった>、とあります。アブラハムは、主なる神の指示に、ひたすら聞き従おうとしました。神に全幅の信頼を寄せ、委ねたのです。しかし、実際に独り子を惜しまず、世の救いのために犠牲になさったのは、神ご自身であったことを、私たちは知っております。
扨て、27節aに、<人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。>、とあります。この「霊の思い」については、6節で述べられていました。<霊の思いは命と平和>である、と。聖霊は、この思いをもって、私たちを執り成し、神は「万事が益となるように」、「命と平和」へと導いて下さる、ということです。それは、今既に、私たちに与えられている信仰の歩みであり、将来の希望でもあります。最終的に「命と平和」に入れられるのは、将来のことだからです。このように、私たちキリスト者は、「万事が益となる」ように神が為して下さることを確信し、神に信頼し、委ねる歩みに他なりません。

