「栄光への歩み」
説教要旨(5月3日 朝礼拝)
詩編 第8編 4~10節
ローマの信徒への手紙 第8章 26~30節
倉橋康夫
パウロは、<神を愛する者たち>、と呼びかけます。私たち人間が、神を愛するとは、人を愛すると同じように愛するというのではなく、神を求め、渇く(詩 42 : 2、3)と言われていること以外ではない、と思われます。そしてまた、 <神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たち>、と言い換えます。神を愛するとは、確かに私たち人間の思い、私たちの気持ちに違いありませんが、そのように神を愛する者となっているのは、神がご計画に従って召して下さったからだ、と言います。私たちが、今このようにキリスト者としての信仰の生活をしていることの背後に、神のご計画があった、神が選び、召して下さったからだ、と言うのです。
更に、次の29節では、そのような私たちを<神は前もって知っておられた者たち>なのだ、と言います。私たちが神を知る、神と出会う以前に、神の方で既に知っていて下り、援助の手を差し延べて下さった、というのです。この神の援助の手とは、言うまでもなく、救いのみ業です。み子をこの地上にお送り下さり、その十字架の死によって救いを実現された、あのみ業です(ヨハ3:16、Ⅰヨハ4:9, 10)。
この神の愛が先行してあり、この神の愛に入れられた者たちが、神を愛する生活、即ち、神への信頼・信仰に生き、体が贖われることを待ち望む・希望の生活をするのです。このように、信仰と希望と愛を考える場合、人間の信仰と希望を支え、確かなものとするのが、神の愛です。それ故に、第Ⅰコリント書でパウロは、<それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。>(13:13)、と言うのです。
扨て、<神は前もって知っておられた者たちを>、神を愛する歩みをする者たち・信仰と希望に生きる者たちを、<御子の姿に似たものにしようと、あらかじめ定められた>、言います。つまり、主キリストの十字架は、神の愛を示すものですが、それは、信じる者を神の独り子であるみ子の姿に似たものにする事態に至らせる、と言うのです。主キリストは、<神の似姿であるキリスト>(Ⅱコリ4:4)、<御子は、見えない神の姿>(コロ1:15)と言われています。つまり、み子の姿に似るとは、神の姿に似ることです。それは、神に造られた人間が、本来持つ筈の姿です(創1:26、27)。併せて読んだ詩編 第8編では、神に似せて造られた人間の不思議と光栄を、心を震わせるようにして、讃美告白しています。<人間は何ものなのでしょう。/人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ・・・>、と。
神に造られた人間が本来の姿・あり方を失ってしまった時、滅びへの道を歩み始めましたが、本来の姿が回復される時、救いが達成されるのです。それは、<御子が多くの兄弟の中で長子となられる>ということだ、と言います。<長子>という字は、一番上の兄であることと、死者から復活した<第一の者>(コロ1:18)という意味です。ですから、信じる者が主キリストの復活の姿に似ることを意味します。
この全てが、神の遠大な救いのご計画です。その神のご計画の中に、教会の歩みが進められます、教会に連なる信仰者の生活があります。パウロは、<・・・、義とされた者たちに栄光をお与えになった>と言います。神の永遠の選びの中に、神を信じる者たちの「栄光への歩み」が始まっているのです。今や、私たちは「栄光への歩み」の確実なる約束(フィリ3:21)に生かされています。共々に、励まし合い、この幸いな歩み・「栄光への歩み」を更に前進せしめ、全うしたいと思います。

