「渇いている人」
説教要旨( 5月 10日 朝礼拝)
詩編 第107編 4~9節
ヨハネによる福音書 第7章 37~53節
伊藤英志
イスラエルの祖先がエジプトでの苦役から解放され、神の憐みによって飢えと渇きから守られつつ天幕生活の旅を続けたことを覚える仮庵祭のクライマックスでは、エルサレムの神殿で多くの家畜が屠られ、その血が流れ出ます。また多くの人々がシロアムの池から水を汲み出してきて、神殿の祭壇に注ぎかけます。神殿の境内からは多くの血と水が幾筋にもわたって流れ出続けていたのです。
この仮庵祭の最も盛大に祝われる終わりの日に、主イエスは立ち上がって大声で叫びます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」。
しかし、40節以下にあるように、主イエスと出会いこの言葉を聞いた群衆の間に主イエスのことで対立が生じます。人々の中には様々な理解が生じ始め、主イエスが何者であるかについて意見が分かれ始めます。人々は「本当にあの預言者だ」、「メシアだ」、「メシアはガリラヤから出るだろうか」と言い始めます。主イエスを捕えようとしていた人々の中にも手をかけられなかった人々が出てきたことが証言されています(44節)。
分かれたのは群衆だけでなく、エルサレムの指導者たちであった祭司長たちやファリサイの人々にも亀裂が生じ始めます。彼らは主イエスを捕えて殺害することで一致していましたが、その決定に異議を唱える人が現れます。かつてエルサレムに来ていた主イエスを夜の闇の中を訪ねた(ヨハネ福音書第3章)最高法院の議員であったニコデモです。
ファリサイ派に属していたニコデモは、主イエスを逮捕して殺害しようとしている手続きに誤りがあると主張し、律法の定めに則って判決を下すべきだ言い出します。
主イエスは何者であるかについての議論は、結論が出ないまま一旦中断します。仮庵祭が終わり、人々はおのおの自分の家へ帰って行ったからです。帰り道、人々の心の中には何か納得できないものがあったはずです。神の恵みと憐れみに感謝をささげるための巡礼で訪れた神殿で主イエスと出会い、その教えを聞いた人々は意見が分かれて対立したからです。ファリサイ派の中にも動揺が走ります。
自分の町や家へ帰るその道は、渇きを覚える道であったことでしょう。自分の判断こそ正しい。自分の知識こそ間違いない。そうした自分の主張を貫き通すことで相手の誤りを非難しあうようになる人々こそ主イエスが教えた「渇いている人」の姿でした。仮庵祭で流された血と水は、人々の魂を潤すどころか、対立と論争、渇きの中へと向かわせたのです。
自分の期待や判断を否定され、批判されると、人の魂はただ渇いていきます。満たされるべき生ける水を渇望して激しく渇くのです。自分を満たすものを渇望している魂に「生きた水が川となって流れ出る」ようになる。その水とは、十字架のご栄光を経た主イエスを信じる人が受けることになる神の霊です。
十字架につけられた主イエスは、「渇く」と言われました。主イエスが十字架上で渇望していたのは、神の御旨である主イエスを受け入れずに殺害することで一致した人々を救い出すことでした。主イエスが十字架で死なれ、兵士が槍でわき腹を刺すと「すぐ血と水とが流れ出た」とも証言されています(19:34)。
人にとって真の渇きとは、神の御旨と一致できないこと(神の救いの御業を否定する罪)から生じます。人を真の死、霊の死に至らせるほどに渇いている人々の命を救い出すために、主イエスは十字架での屠りによって血と水を流されたのです。
主イエスの十字架は、誰も作り出すこともできず、誰も止められない流れとなる神の霊を注いで人々の罪を赦すのです。そして、渇きを知らない身に人々を変えるのです。荒れ野のように激しく渇いた地上に打ち立てられた十字架の主イエスこそが、私たちの命に生ける水―神の霊を注いでくださり、渇いてしまう私たちを豊かに潤してくださるのです。

