「神が味方」
説教要旨( 5月 17日 朝礼拝)
詩編 第118編 1~16節
ローマの信徒への手紙 第8章 31~39節
倉橋康夫
パウロは、これまで語ってきたことをまとめて、要するにこういうことだ、と言います。それは、「神が味方」、ということです。併せて読んだ詩編 第118編で、<主はわたしの味方>と繰り返され、<人間に頼らず、主を避けどころとしよう>、と言われています。パウロは、この詩編を思い浮かべていたに違いありません。
<もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。>、とパウロは言います。神が味方なら、誰をも恐れる必要はない、と言うのです。しかし、私たちキリスト者の実態を顧みると、依然として人間関係に苦しみ、様々なこの世の困難に悪戦苦闘をしています。一般の人々に較べて、それ程違わないように思われます。けれども実は、決定的な違いがあります。それは、神が自分の味方であることを知っている、ということです。そして、どのような困難な事情にあっても、神のみ心が行われることを信じていることです。既に共に読んだように(28節)、「神が、万事を益として下さる」ことを、キリスト者は知っており、信じているのです。そうであれば、「何ものも敵対できない」とは、万事が益とされる信仰者の歩みを、何ものも妨げることはできない、ということでしょう。
そこでパウロは、何故にそれ程まで堅く、神が味方であることを信じ得るか、その根拠を示します。それは、<御子をさえ惜しまずに死に渡された>、という事実にある、ということです。パウロは、<わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された>、と言います。これは、言うまでもなく、主イエス・キリストの十字架の出来事のことです。パウロは、自分自身も聞かされ、受け入れたこととして、<キリストは・・・わたしたちの罪のために死んだ>(Ⅰコリ15 : 3)、と言っています。主キリストが私たちの罪を全て引き受けて下さった、ということです。そしてパウロは、この出来事に、神が私たちの味方であることの根拠がある、と言うのです。
私たち人間の罪が、この世界をどんなに暗くしているか、計り知れないものがあります。人間世界の憎しみ、争いは言うまでもなく、人間がはかなく死んでゆかなければならないこと、死の恐れを抱きつつ生きなければならないことも、人間の罪がもたらすものです。その罪を主が引き受けられたとは、罪のもたらす悲惨から救って下さった、ということです。私たち人間が、罪赦されて生きることができるのです。罪が赦され、神との交わりに生かされる者は、死の恐れから解放されます。永遠の命が約束されているからです。否、既に永遠の命に生き始めているからです。弱さの故に、たじろぎ、おののくことがあるとしても、この救いは失われることはありません。
神は、このように、私たち人間を悲惨から救い出すために、み子を十字架にお架けになられました。そうであれば、私たちに必要なもの全てを、神がお与え下さらない筈はありません(32節)。必要なもの全てとは、救いに関して、全てのことを備え、与えて下さる、ということに中心があると言えるでしょう。
私たちは、神のみ子がこの世に来て下さった、しかも、十字架にお架かりになるために来て下さったことに、「神が味方」である確かな証明を見るのです。詩編 第118編13節以下で、<主はわたしの砦>、<主はわたしの救い>、と喜ばしく、讃美・告白されています。主キリストによる救いを指し示している、と思います。「神が味方」! この確信の下に、主キリストによる救いに結ばれて、喜びの信仰生活を進めたい。神の祝福の許に生かされる喜びを、益々深く味わいつつ、そして、この世の人々に向かって、証しを立てる歩みを、共々に進めていきたい、と祈り願います。

