「神の愛に結ばれて」
説教要旨( 5月 24日 朝礼拝)
詩編 第44編 20~27節
ローマの信徒への手紙 第8章 31~39節
倉橋康夫
ロマ書のこの段落の小見出しに、「神の愛」とあるように、ここ全体が神の愛についての讃美の個所です。そして、この段落全体の主語は「わたしたち」です。パウロ個人としてではなく、キリスト者である私たち、という観点に立っているのです。
パウロは、誰が訴えるだろうか(33節)、と言います。恐らく、敵対者、律法、サタン等を考えたと思われます。色々なものが、私たちの罪状を暴き出すことができるでしょう。けれどもパウロは、「わたしたちは、神に選ばれた者たちなのだ」、と言います。神は、私たちの罪状の全てをご承知の上で、選んで下さいました。私たちが信仰を告白し、教会に入れられた、ということは、そのような神の選びを受けたということです。
ところで、パウロは更に、<だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。>(34節a)、と言います。「誰が、有罪宣告者か?」(直訳)ということです。前節の「訴える者」のことでしょうか。しかし、訴える者たちが、直ちに、有罪宣告有資格者とはなり得ません。そうではなく、ただ神のみが、有罪宣告をし得る方です。そして、事実、神は私たち人間の有罪を宣告されました。ところが、神はその有罪宣告の結果を、み子に負わせられたのです。そのために、神のみ子がこの世界に来られました。もしこの人間に対する有罪の決定がなければ、神のみ子がこの世界に来られる必要もなかったことでしょう。
だからここで、主キリストのみ業が語られます。<死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。>(34節b)、と。「十字架の死と復活、昇天と執り成し」です。主キリストのみ業を語る場合、使徒信条にあるように、十字架の死と復活、昇天と再臨、とすることもできます。けれども、ここで主の執り成しを語るのは、パウロがこの文脈でぜひ触れたいことだったのです。どのような形で、神の愛をひしひしと感じるのか。それは、主キリストのみ業によって、とりわけ執り成しによってだ、と言うのです。主キリストの執り成しとは、有罪宣告を引き受けて下さったこと自体であり、また、今神の右に座して執り成していて下さることです。そして、聖霊の執り成しも、主キリストによる執り成しも、それをお受けになる神ご自身が望んで、お膳立てをされた、と言うことができます。
併せて読んだ詩編 第44編の23節は、信仰者の苦悩を言い表しています。<23 我らはあなたゆえに、絶えることなく/殺される者となり/屠るための羊と見なされています。>、と。信仰に生きているけれども、常に苦悩が付きまとうのです。パウロも、七つの危険について語り(35節)、詩編 第44編を引用します。<「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」>、と。「屠られる羊」は、何よりも主イエス・キリストです。ここでパウロは、十字架の主と自分とを重ね合わせています。
詩編の記者は、多くの危険にさらされながら、神に訴えます。<27 立ち上がって、我らをお助けください。/我らを贖い、あなたの慈しみを表してください。>、と。しかしパウロは、主キリストによる助け・贖いが既に与えられていること知っています。その上で、キリスト者の歩みは、主キリストの苦難に重ね合わせられる面を伴っているものであることを告白します。それは、主の愛に生きようとする時に招く苦難です。パウロは、主キリストによる執り成しに目を凝らします。神の右に座し、今この時、執り成しを続けていて下さる、主キリストに思いを馳せ、神の愛をひしひしと感じるのです。これは、私たちキリスト者が全て、同じように「神の愛に結ばれて」生きていることを指し示しております。

