「輝かしい勝利」
説教要旨( 6月7日 朝礼拝)
イザヤ書 第53章 6~10節
ローマの信徒への手紙 第8章 31~39節
倉橋康夫
私たちキリスト者にとって共通のことは、主キリストの愛を受けており、その愛に堅く結ばれていることです。そこで、パウロは、主キリストの愛から引き離そうとするもの、キリスト者を脅かすと思われるものを数え上げます。艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣。七は完全数であり、キリスト者を脅かすあらゆるものを意味します。ここでパウロが言いたいことは、キリスト者は、どのような困難があっても、命の危険にあったとしても、主キリストの愛から引き離されない、ということです。
パウロがここで、<キリストの愛>という表現を用いるのは、主キリストの十字架の死によって示された愛を考えているからです。パウロは詩編 第44編23節からの引用として、<わたしたちは、・・・屠られる羊のように見られている>、と言います。「屠られる羊」と言うと、私たちはすぐに「苦難の主の僕」の預言を思い出します。併せて読んだ、イザヤ書 第53章です。<屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。> この苦難の主の僕は、主イエス・キリストを指し示している、と考えられます。そして、その苦難は、主の十字架を思い起こさせます。この主キリストと重ね合わせて、キリスト者は、<屠られる羊のように見られている>、とパウロは言うのです。
パウロは同じことを、Ⅱコリント書 第4章10節で次のように言っています。<わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。>、と。主キリストの死を持ち歩いて、この身をもって、主の死を証しする、屠られる羊のように見られることによって証しする、と言うのです。屠られる羊は見るからに哀れで、無力な存在です。けれども、主イエスは、そのようなお姿の中で、愛を示されました。人々にさげすまれながら、愛の道を歩み抜かれました。それは、この世の力に頼る形ではなく、人々を真の救いへと導くためでした。無力にしか見えないお姿にこそ、人を救う力が隠されていたのです。洗礼者ヨハネは、主イエスを見て、<「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」>(ヨハネ 1 : 29)、と言いました。
私たちは、この主キリストによって罪赦された者として、愛に生きるのです。もとより、それも不十分な歩みです。けれども、主キリストの愛に結び付けられ、繰り返し連れ戻されて、主キリストの愛を証しするのです。ここに、キリスト者の勝利が現されます。パウロは、<しかし、これらの全てのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。>(37節)、と言うのです。「輝かしい勝利」とは、ここにだけ出る特別な字です。色々な戦いの一つに勝つというのではなく、究極の勝利です。最早何ものによっても脅かされることのない勝利、もう安心であり安全である、ということ。真実の平安、揺るぎない平安、と言っても良い。屠られる羊のように見られるキリスト者の姿に、「輝かしい勝利」、揺るぎない平安が現されていると言うのです。
主イエスは弟子たちに訣別説教をなさった時、次のように言われました。<あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。>(ヨハネ 16 : 33b)、と。正に、屠られる羊として、十字架へ赴く時のお言葉です。世の罪を取り除く小羊として、神の祝福を世にもたらすに際して、主イエスは「世に勝っている」と言われました。この主イエス・キリストによって、私たちは「輝かしい勝利」を得ています。神の祝福に与り得る者とされたのです。益々喜ばしく、主キリストの救いを証しする歩みを、共々に進めていきたいと思います。

