「もう罪を犯してはならない」
説教要旨( 6月 14日 朝礼拝)
申命記 第5章 22節
ヨハネによる福音書 第8章 1~11節
伊藤英志
自分を罪に定める者は誰もいなくなり、朝日が差し込む神殿から一人の女が去っていきました。女はそこで新しく生きる者とされて歩み出していきます。
仮庵祭が終わって、オリーブ山で夜を過ごした主イエスは、夜が明けると静寂が戻った神殿の境内に入っていきます。しかし、祭が終わっても、主イエスを信じるようになって自分の家に帰らずにいた人々が、神殿にいた主イエスのところへ集まり始めます。夜明けの光の中、主イエスは神殿で教え始めます。
そこに、一人の女を連れた律法学者たちとファリサイ派の人々が、ただならぬ雰囲気でもって主イエスに迫ってきます。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
彼らの目的は、「イエスを試して、訴える口実を得るため(6節)」でしかありません。騒然とまくし立てられても、主イエスはただ黙って、かがみこんだまま、指で地面に何かを書いています。
しつこく問い続ける彼らに主イエスは身を起こして言われます。7節「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
この声を聞いた者たちは、「年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってしまい」ます。年長者が立ち去ったということは、この裁きの場にいる人々はただちに解散せよという意思表示です。
そのようになったのは女を連れて来た人々の行動に、モーセの律法に反する行動があったからです。律法は、姦淫に及んだ男女とも死罪に相当すると定めているのに、当事者だった男を連れて来ていません。また、本人から事情を聴いて事実関係を確かめた上でなければ判決を下すことはできないはずでした(7:51)。また、4節「姦通をしているときに」とは、原文では「姦通させられていたときに」という意味を含んでいます。つまり、女が望んでいないことを強要されていたことをほのめかしています。律法学者たちは、真実を隠して偽証していたとも考えられます。女に石を投げつけることができる、全くの罪なき者は、そこに誰もいなかったのです。
主イエスが黙って指で地面に書いていたことは、モーセの律法の中の十戒であったのではないでしょうか。
神殿の境内の床は、石を敷き詰めてありました。姦淫であったのは事実かもしれない。しかし人を正当な理由なく拉致連行してはならない―人を盗んではならない。石で打ち殺せと言っている人々は、偽証をしていた可能性もある。主イエスの沈黙は、罪を犯すことなくそこにいた者が誰もいなかったことを、十戒の文言を指で書き示しながら告げようとしていたのではないでしょうか。
主イエスは、モーセがシナイ山で二枚の石板に記された十戒を神から授かったように、新しい掟をオリーブ山で授かったのかもしれません。石に書き記されるのでなく、十字架によって成し遂げられる―律法が完成する―出来事によって示される掟です。「互いに愛し合いなさい(13:34)」という「新しい掟」です。
女を罪に定めなかった主イエスは、この女を連れてきた人々の罪さえも、ご自身が十字架で負うことになるのを知っていたのです。だからこそ、この時、誰も罪に定めません。
「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」主イエスは、二度と罪を犯すことのない道―新しく生きる道を今歩み出すチャンスを与えになります。
罪の力から逃れきれない私たちにも、夜明けの光、復活の朝の光に新しく生きるよう主イエスが呼びかけています。それが主イエスを通して現れた「恵みと真理(1:17)」です。
その言葉は、希望と力に満ちた新しい出発を告げています。新しい掟に生きる、その道を歩み出すための戒めの言葉、励ましの言葉が、この私たちにも静かに響いているのです。

