「あなたの手に渡す」
説教要旨( 6月28日 朝礼拝)
申命記 第2章 24~37節
ルカによる福音書 第22章 19~23節
橋本いずみ
イスラエルの民は荒れ野を進み行き約束の土地に行くために、他国の領土を通って旅を続けてきました。エドム、モアブ、アンモンの土地を通過する時、イスラエルの民は戦いを挑まず、平和の内に通過しました。けれども、ここで神は「戦いを挑むように」と仰せになられます。そして、神が「見よ、あなたの手に渡した」と仰って与えてくださるものを受け取り始めます。敵を打ち破ることができたのは、「主が与えられた」からであると繰り返し語られ(24、31、33、36節)、土地の取得は「神の御業」であることが明らかにされています。神がここでお与えになった土地は、神の約束の地と比べれば、小さな土地です。しかし、今まで、彼らの手には決して渡さなかった「土地」、神の約束の先取りとなる「土地」を神は今イスラエルの民に引き渡されたのです。
申命記でイスラエルの民に引き渡されたのは、「土地」です。合わせて読んだ新約聖書で、引き渡されるのは主イエスです。土地が与えられた時に「引き渡した」と言われている言葉と同じ言葉が「裏切る者」(21、22節)という言葉に用いられています。
主イエスの弟子のうちの一人であったユダは、主イエスを殺したいと思っている人々(祭司長や律法学者たち)に引き渡してしまいます。ユダは、裏切り者として知られていますが、彼も主イエスの弟子の一人です。主イエスと寝食を共にし、一度はそのお言葉に聞き従い、主イエスこそ救い主と信じた人のうちの一人です。そのユダが主イエスを裏切り、引き渡したのです。ユダも主イエスの弟子であるということは、ユダがわたしたちの姿でもあり得るということです。
主イエスを殺そうとしているものは、私たちのごく近くにあります。殺すというのは、存在を消してしまうということだからです。殺人ももちろんですが、存在しないがごとく扱うことも「殺す」ということに含まれます。私たちの日々の生活で主イエスの存在を消そうと意図しなくても、すっかり主イエスの存在が消えてしまっていることがあると思うのです。まことの支配者であられる主イエスが、私たちのうちから消えてしまって、ユダ同様に主イエスを引き渡してしまっていることがあると思うのです。
この聖書の個所は、最後の晩餐と言われている個所です。代々の教会は、「この記念として行いなさい」と主が命じられたお言葉に従って聖餐式を行い続けています。聖餐式は、主イエスが体を与え新しい契約のために血を流してくださったことを思い起こさせるものです。主イエスがお与えになった身体と流された血潮は「あなたがたのために与えられる」と弟子たちに、そしてわたしたちに仰ってくださって、実際に十字架によってわたしたちに与えられたものです。
主イエスが十字架の死に引き渡されましたのは私たちに身体を与えるという「神の御業」のためだったのです。主イエスは、ご自身を引き渡した者たちにその体をお与えになりました。神は「見よ」と語られ、裏切るユダさえも用いて、神の御業はなされたのです。
私たち主が再び来てくださるという約束を信じて、そのときに完成される神の支配を待ち望んで旅をしていきます。主は、神の支配が実現へと向かっていることをお示しくださるためにその身体を与えてくださいました。
私たちは約束実現の始まりを味わわせていただいています。神の約束の先取りとして、神ではない者が支配していたところを、神が支配されるところとして与えてくださいました。教会が建てられている「土地」も、わたしたち自身も以前は神でない所有者によって支配されている者でしたが、神がわたしたちのまことの支配者になってくださいました。
神がわたしたちの手に渡されたものは、神の約束実現の始まりです。神の約束が完全に実現するときを待ち望んで、神の約束を信じて、その旅を進み行く者でありたいと思います。

