「わたしの確信」
説教要旨( 7月5日 朝礼拝)
詩編 第36編 6~10節
ローマの信徒への手紙 第8章 31~39節
倉橋康夫
ロマ書は、この第8章で一段落となります。その締め括りの言葉は、何ものも<わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない>、との宣言です。第1章17節では、<福音には、神の義が啓示され>ている、と語り始め、主キリストによる神の愛を高らかに褒め称えて締めくくるのです。主キリストの福音とは、神の義が貫かれることであり、それは結局、神の愛が示されることに他ならない、と言います。ここに、私たち人間の救いがあるのです。このことを、<わたしは確信しています。>(38節)と言います。パウロは、「わたしの確信」をもって締め括りとしますが、それは教会に与えられた確信だからです。
そこで、パウロが語る確信について、真っ先に挙げられるのは、「死」です。人間にとっての最大の敵である死さえも、私たちを、<主キリスト・イエスによって示された神の愛から>引き離すことはできない、と言います。ここに、福音とは何であるかが言い尽くされています。主キリストが来られたのは、正に死を滅ぼすためだったからです。主はそのことを実証されました。それが、つまり、主の十字架の死と復活の出来事でした。<わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛>と言う場合、主の十字架の死と共に、復活を指し示しております。
この主の復活は、神の愛に結ばれている者たち自身の復活を約束するものです(Ⅰコリント15:20、21)。この望みを堅く持ちつつ生きる時、死の力は無力となります。肉体の死が終着点ではなく、その先に復活のあることを確信することができるからです。更にパウロは、<最後の敵として、死が滅ぼされます>(Ⅰコリント15:26)、と力強く断言しています。それは、神の愛に結ばれている者たちの復活の時の事態を指し示しています。死が存在しなくなる、と言うのです(黙示録21:4)。このように、神の愛に結ばれて生きる信仰者の歩みは、死をも乗り越え、死の彼方に望みを確信する歩みです。
パウロは更に、「命」を挙げます。ここで<命>と言われているのは、この世の生活を意味しています。この世の生活における魅力的なもの、喜ばしいことです。この世の誘惑には強力なものがあります。勿論、私たちには、この世の生活を楽しむことが許されています。そのこと自体は、神の祝福です。けれども、この世のことに心を奪われ、信仰の道から逸れるとするならば、本末転倒と言わなければなりません。パウロが、信仰の歩みを妨げかねない強力な力として、死と並べて命と言うのには、このような理由があります。
けれども、そのようなこの世の力も、神の愛から引き離すことはできない、というのがパウロの確信です。この神の愛に結び付けられている以上に望ましいことは、他にはないと言うのです。仮令、この世の魅力が束になって押し寄せて来ても、神の愛に結ばれている幸いと望みを捨てることなどできない、というのがパウロの確信なのです。私たちも、パウロと同じ「わたしの確信」に立ち続けたいものです。
併せて読んだのは、詩編 第36編6~10節です。主なる神のみ名を限りなく褒め称え、神の恵みのみ業を仰ぎ、神の恵みに潤い、そして、神こそ命の源・光の源である、と告白します。正に、主キリストによって示された神の愛に結ばれて生きる、私たちキリスト者の讃美、感謝と告白にぴったりマッチしている、と言えます。この詩編の作者と共に、私たちもこの詩を、主キリストによって共有できるのです。この喜びと讃美、感謝と告白は、今や、主キリストによって示された神の愛の故に、常に私たちのものです。それは、パウロの言う「わたしの確信」に裏付けられた、私たちキリスト者の歩みそのものなのです。

